『宗方姉妹』(1950)
これ、読み方があるんです。
「むなかたしまい」ではなく、「むなかた”きょうだい”」と読みます。
どうしてそう読むのか。恐らく、
作品の中で姉妹のことを皆さん「きょうだい」とお呼びになるからでございましょう。
さて、小津安二郎が松竹ではなく「新東宝」で撮ったこの一本。
最近、生誕120年の記念に、第76回カンヌ国際映画祭で上映されました。
一説には「ホラー映画」とも言われるこの映画の
一体どこが見どころなのか?
それはなんと言っても、高峰秀子と田中絹代という、日本を代表する名女優の「名バトル」でございます。
本作において、高峰演ずる満里子は、一方的な「破壊者」であります。
舌を出したり、姉の恋愛に割って入ろうとしたり、それはまあ暴れん坊。
映画のフレームさえ、彼女に気を遣っているかのように見えます。
それに対し、田中扮する節子は、「修復者」とも呼ぶべき存在。夫が暴力を振るっても、彼女はじっと耐えます。忍ぶることこそ我が本望、と訴えんばかりの瞳を、小津は見逃しませんでした。
さあ、その対局的な姉妹が、同じ画面に映るとどうなるか。皆さんも想像がつくとは思いますが、「混沌」そのものを見せつけられるのです。他愛もない会話を通じて、映画内空間の破壊とその修復が繰り返され、それは次第にヒートアップしていきます。
姉妹の痴話喧嘩、と言ってしまえばそれだけのこと。
しかし、私は、そんな言葉よりももっと大きな、急速な速さで進む「生成と消滅」を繰りかえし見せられたのではないかと思います。姉がああいえば、こう言う。妹がああすれば、こうする。それらは互いに「打ち消し合う」ようにも、はたまた「反発している」ようにも、「異常な接近」をしているようにも見えます。
物語の最後、ついに二人が導き出したのは……
恋人も、かつての夫ももういない、「ふたりだけの世界」でした。
まさに、彼女らだけの「陰陽太極図」が完成した、と言っても過言ではありません。
この衝撃といったら、なんでしょうか!彼女たちは、自身の破壊と修復の才能を以てして、ついに「世界の創造」に成功したのです。
最後に。
小津が日本的な静謐な美を求めた、なんて言ったら大間違い。女同士の熱量をこれでもかと描いた本作をご覧になれば、彼の認識が少しは変わること、間違いなしです。