ベランダのつぶやき
秋の冷たい風に頬を凍てつかせながら、ベランダの柵に手をかけて、うろこ雲と潮入川を眺める。浮かんでは分かれて、いつの間にかしまわれていく思考に言語化がおいつかないまま、ぼんやりとしていた。狭間から天使のはしごをかけながら、雲が風に流されていく。ああ、綺麗だな。消えては生まれる絶え間ない景色が、ざわめく頭と心をゆるやかにほどいてくれるような気がした。
目線を下げて潮が引いた川を見つめる。微かにさざめく水面に、魚が小さく弾けたのか、波紋が広がった。とめどなく波は広がるので、どこまでいくのやらと目で追っていたら、しばらくして波は力尽きるように泡沫となって散り消えた。
人間も同じだ、と思った。
大きな、世界という川の中でどこからともなく湧いてきた命。終わりの分からぬ水面を走り続け、徐々に足取りが遅くなり小さくなり、気がつくと溺れている。あがいてあがいて消滅と戦って、最後は幾多の叫びをあげ消えてなくなる。
その起承転結は、広い川にとってはしがないものだ。もとの揺らめく水面に戻れば、何事も無かったかのような表情で空を映し出す。
きっと意味は無いんだろう。今起こった一瞬の出来事は、森羅万象の他愛のない欠片にすぎない。
意味や意義を見出そうとするのは、ただの人間の自己愛だ。答えを見つければ生きやすくなれるがゆえにつけられた、ただの都合だ。
人間は、7、80年という短い時間を無心で過ごす忍耐を持ち合わせない。
泣いたり笑ったり怒ったり悲しんだり楽しんだり。執着したり、愛してしまったり、大切にしたり、自らを犠牲に守ったり。復讐したり、恨んだり、憎んで捨てたり。
私たちの生はただの現象に過ぎないのに、なんのこだわりも持つ必要のない全てを諦められずに、毎日毎日関わり合い傷つき合い嘆き続ける。
そして、傷んだ過去と現在の中で見つけたひとつまみの瞬きを宝物のように抱えて、それを結局は無意味である一生の、報いにしてしまうのだ。
それはなんて弱くて馬鹿なんだろうか。
でも、決して肯定したくはないけれど、広い視界の中で偶然見つけたその波と泡を、雲と空を、綺麗だな、と眺めてしまう。私も馬鹿なのだ。頭の中で複雑に編み込まれたわだかまりを曖昧になだめられるほどには、その綺麗さに心を委ねてしまう。
だからこんなに生き苦しいのだろう。
はたと見上げると、いつの間にやら西の空がオレンジ色の次第になっていた。うろこ雲は散り散りになり、夕日が山へ潜り込み、空を映し出す川も涼やかな暖色に染まっている。
泡をごまんと集めても満たせないこの世界も、恐らく有限なんだろう。いつか消え失せるそのときまで、春夏秋冬、晴れ雨風雪、顔色を変えながら過ぎていく。
こんなちっぽけな泡沫など歯牙にもかけないというように、平然とはしているけれど。
まばゆい斜陽と裏腹に、刻々と夜へ近づいていく東の空を仰いだ。
暮れ合いの空は明暗を一面に滲ませている。
私たちを包む全てを見下ろすと、もしかしたらそれは人の形をしているのかもしれない。
嘆息がもれた。
世界が見せる片鱗は、目裏が痛いほど美しかった。