ジャーナリング
ジャーナリングとは
らしい。
ジャーナリングをしてみようと思う。本当はあまり自分のなかに毎秒噴出する考えなんかを言語化したくない。ことが多い。とりとめもなくてほぼ同時多発に発生するいくつもの言葉になりきらない記憶や情報を正確につじつまの合った文章にはできないから。私の好きなある人は、というか推しは、言語化すると安心すると言っていてよく分からない。頭が良い人なんだなと思う。ここまできてジャーナリングの仕方が本当にこれで合っているのか分からないことに気づいた。
らしい。合ってるっぽい。いいんだ。
いいんだ。と書いた後、「これでいいんだ」に書き直そうとした。これが嫌なんだ。無意識に読み手を意識している。読みやすい文章、わかりやすい文章に書き変えようと無意識に書いている。これが嫌。本当に私が思ったことは書けないような気がして、だからジャーナリングとか、感情の言語化とかを避けてきた。しかも文章を正確に書くことで生まれる本当に私が思ったことと言語化の間の齟齬の上にさらに嫌なのが、書いてしまったらそれが事実なように感じること。口語でも同じ。口語?会話?つまり口に出して音として他人に伝えたりするときの言語化も同様だということ。書いてしまったら、言ってしまったらそれが事実になる。気がする。それはそれは強くそう感じる。あとで読み返したときに自分はそうなんだとか事実はそうなんだとか噛み締める際に文章にしたことが事実として反映されてしまう。というのと、自分の中で内的に、読み返すとか関係なく、言葉にしながらとりとめなかったはずの無限の解釈の可能性をもった頭の中の情報が粗っぽく無理やり型にはめられたり、悩んでいて一つの解答、正しい解答を持たずに散らばって実は複数の解答を持っていたりまたは解答など存在しない悩みが絞られてまるで簡単なように言語化の過程でいくつかの解答を出してしまうのも嫌。やばい疲れた。目が痛いし抗うつ剤をいつもより多く飲んだから副作用の吐き気がする。
少し読み返したら同じテーマについて長々と書いていてすごい。可哀想。確かにまあ少しほんの少しすっきりする。肩が凝るのが難点。確かにジャーナリングであるという名目のもと書いているからこれがすべて事実であると感じにくい。名前を付けることは偉大だ。題名、ラベルのもつ力。ただ感じにくいというだけでそのようにやっぱり感じているんじゃないかという不安はある。日々勘違いをしている。言葉にしなくても早とちりしている勘違いしているから言語化しようがしまいが事実の誤認はしょうがないかも。なんかおもってきた。私は色んなことを勘違い早とちりしながら生きていて自分自身を形成してしまっているなと思う。でも頭がよくないのでしょうがない。頭が良い人なら理論立てて段階的に自分を観測する技術を持っていて軌道修正するメンテナンスができるんだと思う。私はそんなに頭がよくないし、習慣を作ることが苦手だし、知的体力がないし、とても感情的だからできない。悲しい。幸せだね。頭が良い人は。
ここで一度読み返した。
そろそろ寝なくてはならない。眠いし。明日は大学に行かなきゃ、いけない、行きたくないかもしれないけど。行きたいかもしれないけど。普通の暮らしをしたい。ふつうに生きていけたい。普通にというのは、常識的に。常識的にというのは、日々生活リズムが整っていて食事をとり睡眠をとり朝から外に出て登校または出勤し課題や仕事をこなし心平らか穏やかに帰宅すること。
疲れた。もっともっと考えていることtはたくさんあるのに作業が追い付かない。タイピングが遅い。明日はどうしよう。やっぱりなるべく一人でいたほうがいいのか、そうじゃないのか。人と話したほうがいいのか。いいんだろうな。授業の課題はどうしよう。チームワークなんか嫌だ。やりたくない。私がやろうとしたら押し付けてくるし協力しないが、私がやらずにうまくいけばなんだか自分が無能な気がする。私は能力が低いから。リーダーシップも他人を巻き込む力もない。
寝る。