大学生とか嫌いだ

5限終わりのバスの中。冬が来て外は暗くなるのが早くなった。キャンバストートを抱きしめて座る。乗客たちの後頭部が揺れるのに合わせて、私の体も揺れた。閉ざされた同じ空間で酸素を吸って、同じタイミングで同じように揺れる。私はここから身動きが取れない。目的地に着くまで、沢山の人の中でじっとして揺られるしかない。このバスの揺れは、私の大学生活と同期した動きをしている。

本当は好きでは無い友達と、特に楽しくも無い会話を楽しそうにする。隣で苛立っている人を刺激しないように、本当は動かない表情筋を無理やり引き伸ばして笑い気遣う。本当は価値は無いと分かっている常套の話題をまるで面白いかのようにしてしまう。きっとこんなのは大学を卒業しても続いていくのだろう。そしてずっとずっとつまらなくて嘘つきなコミュニティの中で飼われた生き物として、求められている気がする虚像の姿を演じ続けるのだろう。本当に、そう思うと、どこにも行きたく無い。このバスがどこにも辿り着かずに、崖を飛び出して爆発して仕舞えば良いのに。空中でガスがみるみる立ち曇り欠損したバスがスローモーションのように落ちていく様子を生中継してほしい。その焼け焦げた骨を拾い泣く家族に、社会は青ざめ涙して償えない罪を感じてほしい。そんなことすら想像する。

そんなことを想像する心うちとは裏腹に、私の他人からの見た目は、きっと無害で可愛らしいはずだ。強すぎる主張がなく、人当たりが良さそうで、行儀が良い。特に美人というわけでは無いことによる親近感があり、他人は私と話していると許された気分になるだろう。そして何故か笑顔を溢し上機嫌になる。または私を自分の感情の表出場所として躊躇いなく心を委ねる。本当に私は気分が悪い。気分が悪い。気分が悪い。気分が悪い。

彼らは知らないのだ。体ばかり大きくなったうどのような大学生の姿、社会の中での自分の座標に頓着しない幼稚さ、自分が経験しなかったことを無意識にフィクションと捉えることの残酷さ、自分の「普通」の歪み、刹那的な快楽によって消耗した大切ななにか。彼らは何も理解しようとしない。解決しようとしない。この中の何一つ彼らの感覚として重要ではない。飲み会で唾を飛ばして早口に何かを語る威勢のいい彼らや、体を沿って異性にもたれかかり夢見心地の彼らにとって重要なことは、今この瞬間の快・不快・都合の良さ、顔やスタイルの良い女か男、集団の中で何が優位に働いているか、擦り切れるほど大多数に消費される流行物に誰よりも早く追いつくこと、次のクリスマスの予定を埋めること、そんなことだ。救いようのない時間を過ごす大学生たちを支える社会は疲労困憊なことに気づかず、何かを謳歌していると勘違いをしている。なぜかこんな彼らでさえどこかには辿り着く。そして平然と歩く。まるで自然なことのように、今まで自分たちは間違わずに生きてこれましたと宣言するような表情で。

気分が悪い。きっと私もその一部だ。大きな若者の流れの中で流されている1人だ。自分だけは違うと思いたい。誰も気づかないだけで、本当は私は彼らとは違うんですよ、と面を付けたつもりでいる。その面はそのまま私の皮膚で、剥がすと痛いことを自覚せずに。馬鹿みたいだ。本当は馬鹿なんだ。絶対に許さない。私はこんなに馬鹿な自分のことは、そのままに許さない。分解して点検して正しいメカニズムに戻す。諦めてはあげないのだ。




めっちゃ怒ってるね〜


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