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「助けて」と言えないから「助けたい」と言う

「助けて」と言えないから「助けたい」と言う。

昨日、知人がSNSに投稿していたこの一言がグサリと私に突き刺さった。
心当たりがありすぎて、昨日からずっとこの言葉に引っ掛かる自分について考えている。

「助けて」と言えない自分についての考えを、私を嫌と言うほど見てきてくれた相方に伝えてみたら「もっと小さいところだと思うよ」と言われた。
「助けてとかそんな大それたところじゃなく、君は素直にお願いができないよね。何を頼むにも言い訳みたいに『ここにこれがあると便利だからこれ持ってきて』と言う。『これ持ってきて』の一言でいいのにといつも思う」と若干煩わしそうに言われた。

そこから10分ほど、自分を注視しただけで2回分、その煩わしいであろう枕詞を取ることができた。
お願いするための枕詞には自分が”今これやっているよ”のアピールが多いことに気がついた。なんて言い訳がましくセコイのだろう。

「助けて」と言うことは、本当に難しい。
最近まで、自立とは、誰にも迷惑をかけずに生きることだと思っていたからだ。
子供の頃から言葉だけでなく仕草や行動で、全ての大人に教わってきたような気さえする。

それが嘘だと気づいたのは、だいぶ大人になって子どもが生まれてからだ。
私の心のバイブルである、安冨あゆみさんの著書「生きる技法」(「助けて下さい」と言えた時、人は自立する」)との出会いが大きい。それから何かあるごとに何度も何度も読んだ。(私は本を滅多に読まない)

それから少しずつ「助けて」と言っていいんだ、と頭でわかり始め、
職場ではいろんな人に助けてと言い、助けてもらったけれど、職場を出たプライベートな部分を、誰にどう助けを求めていいのかがわからなかった。結局家族以外に助けを求めたことは、多分一度もないかった。政治の力を使って「助けて」と言える仕組みを作りたかったのは、助けを求める難しさを身をもって知っているからなのだと思う。

しかし、転機となったのは、自分の選挙の時。本当にたくさんの人が私と私の家族を助けてくれた。
子どもを預かってくれたり、一緒に駅前に立ってくれたり、チラシを配ってくれたり、おにぎりを握ってくれたり、夕飯を作って届けてくれたり、撮影してくれたり、SNSで拡散してくれたり、手足がないのに演説に駆けつけてくれたり、、、

選挙後、落選の重力に体が重く沈んでいる時は気づけなかったけれど、
しばらくして私は選挙挑戦前より、未来への恐怖が激減したことに気づいた。

助けてくれる仲間がいること、友達がいることが本当に大事なのだわかったからだ。
誰かがきっと助けてくれる、と思えることが何より豊かなのだと気づいた。
困ったらきっとアンパンマンが助けにきてくれる、みたいな。

こんなに大切な気づきがあったにも関わらず、今だに助けてと言うことが、とてつもなく難しい。
日々自分自身を見張りを続けて、この強烈な呪縛を解いていきたい。
さもないと、私が大人たちから学んだように、我が子へこのバトンを手渡してしまうことになるのだ、、。

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