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我よしと利他の心

大本神諭や日月神示では悪とは我よしのこと と言われています 我よしとは自分さえ良ければいい 人は倒れようが死のうがどうでもいい というような態度です

うちの死んだ父のことを母は "自分さえ良ければいい"といってよく喧嘩していました

俺も父が倒れた時になかなか忙しくて見舞いにも行けず 結局一回しか見舞いに行けなかったり

神業をしていたとはいえ、我よしなところがあったのかもしれません

今の世の中の上に立つ人というのは 我よしです
下の人を使って自分は楽をしている

自分さえ儲ければいい

そんなことを大神は戒めています

それに対するのが利他の心です

それはナポレオンヒルの思考は実現化する378pに書いてあるので引用します

実験
今後六ヶ月の間、一日最低一人の役に立つことをすること。そして、その奉仕に対して何の報酬も期待せず、受け取らないこと。

この実験は、成功を引きつける最も強力な法則が何であるかを教えてくれるものである。そして、自分は失敗しないのだという信念のもとに行なっていただきたい。
この「奉仕」の仕方には、数十通りのやり方がある。特定の人たちに、個人的に奉仕するのでもいいし、今の職場で残業という形で「奉仕」をしてもよい。もっとも残業が、残業代支給時間以前に終わってしまったからといって、支給時間帯になるまで何をすることもなく過ごすというのは、ここでいう「奉仕」に、いかなる意味でも含まれないことはいうまでもない。第一、このようなことは、少しでも成功を目指そうという人間のやることではないことは、いうまでもないだろう。
 また、行きずりの人のために何かをしてやることでもよい。要するに、自らが進んで他人のためになることを行うのであれば、相手は誰でも、またどんなことでもかまわないのだ。
 この実験を適切な心構えで行うなら、かつて成功を実現した人たちが発見した法則をあなたも発見することであろう。その法則とは・・・・・・

奉仕をしてその報酬を得ないということはない。それは、仕事をしなければ報酬を得られないのと同じくらい確かなことである


俺はこれをモットーとして日々過ごしています その結果お金は得られていませんが お金ではない喜びがたくさん増えたなと思っています

形のない報酬はあった

この378 思考は実現化するの表紙の黒96
378×96=36288   36×288=10368
103×68=7004
なし梨になります これはYHVHをアルファベット順で計算して25×8×22×8=35200
352×2=704になります

国常立尊はYHVHです

国常立尊の心は利他の心

人救いの心です

それがいずれは自分の利益にもなる ということらしい

これは聖書のルカによる福音書にも
与えよ。そうすれば、自分にも与えられるであろう。人々はおし入れ、ゆすり入れ、あふれ出るまでに量をよくして、あなたがたのふところに入れてくれるであろう。あなたがたの量る量りで、自分にも量り返されるであろうから。

とある 

利他の心は 与えよ さすれば与えられん の心です

また、関係あることで 聖書に種蒔く人の例えがあります

「種を蒔く人」のたとえ
 「よく聞きなさい。種を蒔く人が種蒔きに出て行った。蒔いている間に、ある種は道端に落ち、鳥が来て食べてしまった。ほかの種は、石だらけで土の少ない所に落ち、そこは土が浅いのですぐ芽を出した。しかし、日が昇ると焼けて、根がないために枯れてしまった。ほかの種は茨の中に落ちた。すると茨が伸びて覆いふさいだので、実を結ばなかった。また、他の種は良い土地に落ち、芽生え、育って実を結び、あるものは30倍、あるもの60倍、あるものは100倍にもなった。」
マルコによる福音書4章3-8節

マタイの福音書13
天国のたとえ話

13 その日のうちに、イエスは家を出て、湖の岸辺に降りて行かれました。 2-3 ところがそこも、またたく間に群衆でいっぱいになったので、小舟に乗り込み、舟の上から、岸辺に座っている群衆に、多くのたとえを使って教えを語られました。

「農夫が畑で種まきをしていました。 4 まいているうちに、ある種が道ばたに落ちました。すると、鳥が来て食べてしまいました。 5 また、土の浅い石地に落ちた種もありました。それはすぐに芽を出したのですが、 6 土が浅すぎて十分根を張ることができません。やがて日が照りつけると枯れてしまいました。 7 ほかに、いばらの中に落ちた種もありましたが、いばらが茂って、結局、成長できませんでした。 8 しかし中には、耕された良い地に落ちた種もありました。そして、まいた種の三十倍、六十倍、いや百倍もの実を結びました。 9 聞く耳のある人はよく聞きなさい。」

10 その時、弟子たちが近寄って来て尋ねました。「どうして、人々にはいつも、このようなたとえでお話しになるのですか。」

11 「あなたがたには神の国を理解することが許されていますが、ほかの人たちはそうではないからです。」イエスはこう答え、 12 さらに続けて説明なさいました。「つまり、持っている者はますます多くの物を持つようになり、持たない者はわずかな持ち物さえも取り上げられてしまいます。 13 だから、たとえを使って話すのです。彼らは、いくら見てもいくら聞いても、少しも理解しようとしません。

14 こうして、イザヤの預言のとおりになりました。

『彼らは、聞くには聞くが理解しない。
見るには見るが認めない。
15 その心は肥えて鈍くなり、
その耳は遠く、その目は閉じられている。
彼らは見もせず、聞きもせず、理解もせず、
神に立ち返って、わたしにいやされることがない。』(イザヤ6・9―10)
16 しかし、あなたがたの目は見ているから幸いです。また、あなたがたの耳は聞いているから幸いです。 17 よく言っておきますが、多くの預言者や神を敬う人たちが、今あなたがたの見聞きしていることを見たい、聞きたいと、どんなに願ったことでしょう。しかし、残念ながらできなかったのです。

18 さて、さっきの種まきのたとえ話を説明しましょう。 19 最初の道ばたというのは、踏み固められた土のことで、御国についてのすばらしい知らせを耳にしながら、それを理解しようとしない人の心を表しています。こういう人だと、悪魔がさっそくやって来て、その心から、まかれた種を奪い取っていくのです。 20 次に、土が浅く、石ころの多い地というのは、教えを聞いたその時は大喜びで受け入れる人の心を表しています。 21 ところが、その人の心は深みがないので、このすばらしい教えも深く根をおろすことができません。ですから、しばらくして信仰上の問題が起こったり、迫害が始まったりすると、熱がさめ、いとも簡単に離れて行ってしまうのです。 22 また、いばらの生い茂った地というのは、神のことばを聞いても、生活の苦労や金銭欲などがそれをふさいでしまい、しだいに神から離れていく人のことです。 23 最後に、良い地というのは、神のことばに耳を傾け、それを理解する人の心のことです。このような人こそ、三十倍、六十倍、百倍もの実を結ぶことができるのです。」

24 イエスは、別のたとえ話もなさいました。「神の国は、自分の畑に良い種をまく農夫のようなものです。 25 ある晩、農夫が眠っているうちに敵が来て、麦の中に毒麦の種をまいていきました。 26 麦が育つと、毒麦もいっしょに伸びてきました。

27 使用人は主人のところに駆けつけ、このことを報告しました。『ご主人様、大変です! 最良の種をまいた畑に、なんと毒麦も生えてきました。』

28 『敵のしわざだな。』主人はすぐに真相を見抜きました。使用人たちが、『毒麦を引き抜きましょうか』と尋ねると、 29 主人は、『いや、だめだ。そんなことをしたら、麦まで引き抜いてしまうだろう。 30 収穫の時まで、放っておきなさい。その時がきたら、まず毒麦だけを束ねて燃やし、あとで麦はきちんと倉庫に納めればよいのだ』と答えました。」

31 またイエスは、こんなたとえも話されました。「天国は、畑にまいたからし種のようなものです。 32 それはどんな種よりも小粒ですが、成長すると大きな木になり、鳥が巣を作れるほどになります。」

33 さらに、こんなたとえも話されました。「神の国は、女の人がパンを焼くのにも似ています。小麦粉に、ほんの少しのパン種(パンの製造に使用する酵母)を入れるだけで、パン生地全体がふくらんできます。」

34-35 群衆に話をする時、イエスはいつも、このようにたとえで語られました。それは、預言者によって言われたことが実現するためでした。「わたしはたとえを使って語り、世の初めから隠されている秘密を説き明かそう。」 36 こうしてイエスが群衆と別れ、家に入られると、弟子たちは、さきほどの毒麦のたとえの意味を説明してほしいと願いました。

37 イエスは、お答えになりました。「いいでしょう。良い麦の種をまく農夫とは、わたしです。 38 畑とはこの世界、良い麦の種というのは天国に属する人々、毒麦とは悪魔に属する人々のことです。 39 畑に毒麦の種をまいた者とは悪魔であり、収穫の時とはこの世の終わり、刈り入れをする人とは天使たちのことです。

40 この話では、毒麦がより分けられ、焼かれますが、この世の終わりにも同じようなことが起こります。 41 わたしは天使を送って、人をそそのかす者や悪人たちをより分け、 42 炉に投げ込んで燃やしてしまいます。悪人たちは、そこで泣いて歯ぎしりするのです。 43 その時、正しい人たちは、父の国で太陽のように輝きます。聞く耳のある人はよく聞きなさい。

44 神の国は、ある人が畑の中で見つけた宝のようなものです。見つけた人はもう大喜びで、だれにも知らせず、全財産をはたいてその畑を買い、宝を手に入れるに違いありません。

45 また神の国は、良質の真珠を探している宝石商のようなものです。 46 彼はすばらしい価値のある真珠を見つけると、持ち物全部を売り払ってでも、それを手に入れようとするのです。

47-48 また神の国は、漁師にたとえることもできます。漁師は、いろいろな魚でいっぱいになった網を引き上げると、岸辺に座り込んで網の中の魚をより分けます。食べられるものはかごに入れて、食べられないものは捨てるというふうに。 49 この世の終わりにも、同じようなことが起こります。天使がやって来て、正しい者と悪い者とを区別し、 50 悪い者を火に投げ込むのです。彼らはそこで泣きわめいて、くやしがります。 51 これでわかりましたか。」

弟子たちは、「はい」と答えました。

52 そこでイエスは、さらにこう言われました。「ユダヤ人のおきてに通じ、しかも、わたしの弟子でもある人たちは、古くからある聖書の宝と、私が与える新しい宝と、二つの宝を持つことになるのです。」

鳥が巣食うまで大きくなる辛子種のように
種蒔く人のように

人の心によいものを蒔く人であれ

トドメノフミでも

己れの救済乞い願い何が何とてする者が千人万人沸いたとて楽園世界ぞ出来まいに、わしは人様救いたい、何が何とて救いたい、そういう者ぞおるだけで、そこは極楽突き抜けた天国なりぞと申すぞよ。

と書かれています

悪一厘は情け 利他の情だということです

国常立尊が艮に落とされて今度はみんなを救うんだという心

人を救う心

それは井戸に落ちそうになっている赤ん坊を救う心でもある

我よしではなく利他の心 与えよ さすれば与えられん
良い種を蒔く人であれ

そんなことがこれから大事になるんだと思います

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