
「辛いことを選ぶのが正しい」と信じていたらしい。
日々noteに掲載されるたくさんの記事を眺めていたら、「誰もがそれぞれの人生を歩いているんだな」という当たり前の事実を実感して心がフワッと膨らんだ。
自分の好きなことをひたすら突き詰め、ありったけの情報と溢れんばかりの「好き」という気持ちを膨大な数の文字に置き換えて綴られた文章。
そんな文章からは芯のある明るさや眩しさ、熱量を感じる。
純粋に、圧倒される。
素敵だな、羨ましいな、と思う。
今まさに日々の暮らしの中で悩み、迷い、もがいている苦しみがそのままに綴られた文章にも惹かれる。
私自身がもがいているからでもあるが、それらの文章が持つ輝きというものが確かにある。
悩むのは辛い。悩むのをやめれば楽になる。でもできない。もがくしかない。それが今の自分の「本当」なのだ。
そこに「その人がその人でいること」を感じ、ホッとした気持ちになる。
それでいいんだな、と思える。
自分にとって辛い選択肢を選ぶことが当たり前になっていた私には、「好きなことをする」とか「自分の気持ちを尊重する」という感覚を掴むことがとても難しいらしいと最近気づいた。
好きなことを存分にやって日々を楽しんでいる人の真似をしてみても、いつの間にか「楽しまなければならない」という義務感に変わっている。
「じぶんが好きなこと・楽だと感じること・居心地がいいと思うこと」を選ぶことは「間違っていること」でもあった。
いつも「正しい選択肢」を探していた。
そしてその正しさの基準はいつも「自分の外側」にあった。
私が好きなことをしようとするとき、その視線はいつも「自分の外側」を向いていた。
この数日の間で「じぶんが好きなこと・楽だと感じること・居心地がいいと思うこと」を選ぶという感覚がぼんやり掴めてきたような気がしている。
言葉にするとありきたりな表現になってしまうが、「自分と周囲を比べない」というただそれだけのことでいいらしい。
周りを見ない、周りを無視する、自分さえ良ければそれでいい。
私のようなタイプは、そのくらいの気合(?)を持ってもいいのかもしれないと思った。
もう、好きなだけ引きこもろう。
好きなだけダラダラしよう。
好きなものを食べよう。
それらが「正しい生き方」だからではなく、「自分が心地良いから」やるのだ。
「好き」が光る文章も、「苦しみ」が輝きを放つ文章も、「それでいいんだ」という感覚を繰り返し私に教えてくれる。
「今、私はどうしたいんだろう?」
大人ぶらず、世間体も考えず、誰の都合も気にせず、ワガママ100%丸出しでいいとしたら?
そう考えたら、不思議と少しだけワクワクした。