50代になった。無職になった。その③
私を自身の会社のプロジェクトに誘ってくれた女性には、こちらからは連絡していない。
自分の体調のことなど報告しようと思ったのだが、私に仕事を振らなければという気遣いをさせてしまうのではと考え、こちらからはアクションを起こさないことにした。
彼女のプロジェクトに参加するつもりでいたので、そこからのスケジュールは真っ白だった。
家事代行の仕事を再開することも出来たのだが、その気になれなかった。
彼女からの連絡を待つ間に、私はYouTubeにすっかりハマってしまった。
占いをメインに、引き寄せに関する動画などを片っ端から見漁った。
現実からただ逃げているだけなのかもしれないという後ろめたさも抱えながら、自分は何を拠り所にしてどっちへ進めばいいのか、その答えを探し続けた。
「いつも良い気分でいる」「ワクワクすることをやる」
いわゆる「引き寄せのコツ」と言われていることである。
これまでも心掛けてきたつもりではあったことだが、完全なプー生活になった今だからこそ、これまでとは違う角度から試してみることができるのではと思った。
それをすることで、求める答えが見つかるかもしれないと思った。
今の自分にとっての「良い気分になること」とはどんなことだろう。
好きなものを食べる、散歩に行く、本を読む、昼寝する・・・
朝起きてから、何の予定もない一日の中で自分の気分を追いかけ、思いついたことをやってみた。
今後の生活への不安は常にあるものの、退屈だとか寂しいだとか、誰かに会っておしゃべりしたいなどという気持ちは起こらない。
あっという間に一か月近くが過ぎた。
そうしているうちに、ふとこんな思いが浮かんできた。
「今、私は本当に『良い気分』でいるのだろうか」
「今のこの感じは本当に『良い気分』なのだろうか」
誰にも邪魔されず好きなように過ごす日々。
快適であることは間違いない。
一生このままでいられたらいいのにな。
贅沢は必要ないけど、安心して暮らせるだけのお金があったらいいのにな。
そんな妄想を膨らませて「良い気分」になってみる実験をしてみたりした。
でも、「良い気分」って、こういうものなのかな。
何かが違う気がする・・・
実験開始当初は、自由気ままに過ごすことで確かに「良い気分」でいられたと思う。
それが、時間が経つにつれて感じ方に変化が起こってきたのだ。
好きなように過ごしているはずなのに、何となく物足りない・・・
つまりは「退屈」し始めたということだ。
では、「今、ここにいる私」が『良い気分』になることは何だろう?
そもそも「良い気分」ってどんな気分なんだろう。
そう考えたとき、ハッとした。
私の中には、ずっと前から、常に、重たい灰色の塊がある。
それはあまりにも長い間そこにあって、それに対する違和感や不快感を感じているにも関わらず気づかなくなっていたものだった。
その塊の上に、それらしい「良い気分」を積み重ねていただけだったのだ。
引き寄せの理論を信じるなら、自分が望むことを引き寄せるには「本音が持つエネルギー」が絶対的に必要で、望んでいない「つもり」の出来事が起こるのも「気づいていない本音」のエネルギーが作用しているのだと思う。
今の私は「重たい灰色の塊」が「気づいていない本音」なのだと気づいた。
この塊の正体は、ありきたりな表現ではあるが「自分を信じられないこと」。
なぜ自分を信じられないのか。
これもありきたりな表現になるが、「周りに合わせて生きてきたから」。
言い換えると「本当の自分を隠して周りに嘘をついて生きてきたから」。
このことにはずっとずっと前から気づいていて、ずっとずっと取り組み続けてきた課題だった。
でも、ほぼ何も変わらないまま今に至っている。
「本当の自分になる」
「自分を肯定する」
そのための様々な試みも、一時的な変化を起こしただけで終わっていた。
少しでも望む方向へ進もうと「前向きに努力」してきたつもりだった。
ここにきて、「その姿勢自体がそもそも違うのでは?」と思い始めた。
これまで周りの人からは「真面目・優しい・丁寧」という評価を受けることが多かった。
人から悩みや深い話を聞く場面もたびたびあり、自分には「人の話を聴く」能力があるのだと思ってきた。
それらを自分の長所として肯定し、自信を持って生きていってもいいのではと何度も思った。
でも、どうしてもブレーキがかかる。
その理由は「本当の自分はそれだけじゃない」という思いがあったから。
相手の話に退屈したり呆れたり違和感を感じることがあったとしても、相手が何を望んでいるか、どんな言葉を欲しがっているかを考えてそれを差し出してしまう。
そのことで相手が喜んだり元気になったりすることも事実ではあるけれど、そのすべてが「相手への純粋な愛・思いやり」だとは言えない。
相手が望んでいるであろうと思う言葉や態度を差し出さずにいられないのは、実は自分自身の保身や弱さのためであるということもまた事実なのだ。
そんな自分を肯定する糸口は見つからず、自分を変えるための心理的な努力は自責の念と常にイコールだった。
自分の弱さや冷たさを責めて敵視しているうちは膠着状態が続くだけなのではないか。
自分の本音が現実を引き寄せるのだとしたら、弱さや冷たさが間違いなく自分の本音の一部であると「感じる」ことが、現状を変える確実な一歩になるのではないか。
「どんな気持ちも自分のものとしてそのまま認める」
この言葉の意味がようやく分かり始めた気がした。
「良い気分」は「実感」が伴っていることが大前提である。
これまでの私は「『良い気分』を感じている」と思い込もうとしていたのかもしれない。
そこに窮屈さや不快感を感じていたけれど、それを認められなかったのだ。
そう気づいたとき、求める答え”のようなもの”がわずかに見えた気がした。
「灰色の塊」を自分の奥底にしまい込んで放置している限り、私はどんなに頑張っても本物の「良い気分」を手に入れることはできないだろうと思った。
どんなに目を背けても「灰色の塊」はそこにある。
それが今の「実感」を生み出しているのだ。
私は自分の直感やひらめきを信じて生きてみたい。
「引き寄せ」の力を感じてみたい。
それには「灰色の塊」が生み出している「実感」を自分のものとして確かに感じ直していくことが絶対的に必要なのだと思った。
自分の冷たさ、ずるさ、飽きっぽさなどありとあらゆるマイナスの感情を、実感を持って感じ切る。
その感情たちの上に、両足の裏をしっかりとつけて立つ。
これまでいわゆる「いい子、いい人」をやり続けてきた私にとっては、とても勇気のいることである。
そして、自分の考えに巻き込まれて行き詰ってしまうのもこれまで繰り返してきたパターンである。
そのパターンを崩すには、勇気をもって自分の考えを外に出すことがどうしても必要だと思った。
その方法として、「話すこと」は私には大変にハードルが高い。
自分の話す言葉に実感がこもっておらず、嘘をついているという感じがしてしまう。その理由はさきに書いたとおりである。
「書くこと」については、かれこれ30年以上も続けてきた。
ただ、あくまで自分の気持ちを吐き出すためのものであって、人には絶対に見せられないと思いながら書いていた。
記録や作品として残すなどという考えももちろんなかったので、書いたそばから処分していた。
そうやって自分を支えてきた。
noteを始めたのは、そんな方法にようやく「限界」を感じるようになったからなのだと思っている。
私の場合は、マイナスの気持ちを自分の中で完結させようとしているうちはいつまでたっても「実感を伴った自分のもの」にはならないのだった。
「誰かに見られる前提で書く」ことで、しまい込んでいた気持ちの捉え方に変化が出ることに気づき始めた。
「実感」が伴っていなければ、「誰かに見られる前提で書く」ことはできない。ならば、しまい込んでいた気持ちをひとつひとつ感じ直してみるしかない。
自分の中のどんな気持ちも、ゆっくり丁寧に感じてみる。
そしてそれを、誰かに見てもらうという前提で書いてみる。
それらの試みがこれからどんなふうに展開していくのかを見つめながら、生きるためにできることを探していこうと思っている。