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短編小説「薔薇脳歌(ばらのうか)」前編
薔薇にまつわる噂にこんな話がある。
父が産まれたばかりの女の子に薔薇を差し出せば、その子は美しく賢く、かつ幸せになるそうだ。
松山仁志は祖母のハナから「あんたの前世は女だった」と言い続けられていた。それが原因ではないが、もし自分が親になれば女の子が欲しいと願っていた。自らの育ての親代わりだった祖母が言っていた「女の子」を見てみたい、いや女の子を育てたいと幼な心は思った。何よりも、一年前に亡くなった祖母へ唯一の『親孝行』になると信じて疑わなかった。
突然、妻の美香からLINEがあったのは日も変わろうかとする時間帯だった。ちょうど帰宅し、一人寂しく晩酌でもと思っていた。彼はスマートフォンを見た瞬間、飛び上がりそうになった。待ちに待った「陣痛がきた」と出産予告とも受け取れる吉報であった。
仁志の脳内は様々な演出シーンが飛び交った。妻の体調を最大限気遣いつつも、頭の中は燃え滾(たぎ)らんばかりの真っ赤な薔薇一色で寸分の隙間など無かった。頭の中は文字通り美しいばかりの花畑でしか無かったが、一方で妻に引かれないかという冷静さも芽生えていた。
過度な演出だけの印象にはならぬよう。
何より、これを機に嫌われぬよう。
そう思うと、彼は自らの突き出た大きな腹を優しく撫でた。
いつ妻から、いや病院から連絡が来るか分からない。そう思うと居ても経ってもいられなくなった。演出の段取りは大丈夫なのか。幸いにも、明日は日曜日だから仕事へは行く必要がない。時間の余裕があると言えばあるが、無いと言えばない。高揚感と同時に緊張感が激しく襲ってきた。
もし、月曜日に持ち越したら会社へ相談をしよう。すぐにそう考えた。
もしかすると亡き祖母が仕組んだタイミングなのか。亡くなる直前に見た病室での優しい笑顔を思い出した。そう思うと、一筋の涙がすっと頬を伝った。
食事中も、風呂中も、トイレ中もスマホは常に傍に置いていた。妻は大丈夫だろうか、赤ん坊は・・・。そう思うと、当たり前に食事を摂ること・湯船に浸かること・便座に座ることをしていることに一種の罪悪感を抱いた。妻は一人苦しんでいるのだ。全てが思い通りに行かず、不自由な思いをしている。自らの命を懸けて戦っている。分娩室にて、二人で。
就寝すら、躊躇いそうになった。
ベットで横になって天井を眺めていると、まるで耳鳴りのように静かな金切り音が聴こえてきた。祖母が何かを伝えに我が家に来ているのかもしれない、と思った。怒りが増すと、祖母はキンキンと高い声で説教を垂れてくることがあった。その再現だろうか。
そんなことを考えているうちに、すっかり眠りこけてしまった。
気がつけばスマホを握りしめたまま着の身着のまま病院に到着した。白いワンピースみたいな服を着た女性が立っていた。祖母に似ていたが、違ってはまずいと思い通り過ぎようとした。
「ヒトシ」「ヒトシちゃん」
聴き覚えのある声だ。故郷で同級生から10数年ぶりに名前を呼ばれたような懐かしさを感じた。
妻の身は一刻を争うほど危ない、と知らされていた。それだけに、誰かと会っている余裕など一秒たりとも無かった。
女性はよくみると、小綺麗に整えていた。一瞥すると、少女にも熟女にも見えた。女性に名前を尋ねたものの「分からない」と言う。仁志は再度訊き返そうかとしたが、女性は怪訝そうな表情をしておりこれ以上は追及することは止めた。
病院に急いで入ると、「松山様、松山様」と館内放送がすぐに流れていた。
「なぜ入ってもいないのに私の名前が呼ばれているのですか?」
仁志は質問が当たり前であるかのように、目の前の受付に尋ねた。
「いや、先ほど病院前に白いワンピースの女性が佇んでいたでしょう」受付の女性は、至極当然のように仁志に返した。
「はい。名前はおっしゃってくれませんでしたが」彼は寂しそうな目を向けてから、すがるように受付の女性を見た。
「あの女性は不思議な人なんです。受付にふらっと来ては、『〇〇さんの子供がそろそろ産まれます』とつぶやいて去ってしまうんです」
受付女性はその度に「院長から御礼がしたい」といつも言われている、と困惑した表情を覗かせた。仁志は(あの女性はたぶん私の祖母かもしれないです)と伝えようとしたが、一瞬躊躇した。もしかすると、人違いかもしれないと思い直した。
受付女性と悠長に話している場合では無かったと、我に返るように仁志はエレベーターで分娩室がある3階へ向かおうとした。
3階に到着した。真っ白な扉の前には「関係者以外入室禁止」と書かれてあった。仁志は呼吸を整えるように一つ深呼吸をした。妻を案じつつも、祖母がここにいないことを叶わぬ夢のように想った。いや、と思い直した。何かが閃いたように、指を鳴らした。念じれば、祖母はここに来るのではないか。どうせ、夢なのだからと。
仁志は「おばあちゃん・・・おばあちゃん、まだ病院の近くにいたら、分娩室に来て」とブツブツと念仏を唱えるようにつぶやいた。懸命につぶやいた。心でも念じた。
すると、突然白いワンピースを着た亡き祖母は音も立てず、静かに眼前に現れた。まるで、神が降臨するように天井から舞い降りて来た。
夢とは言っても、仁志は信じられない表情で祖母を見上げた。足が浮いたような状態の祖母は無表情でこちらを見ていた。仁志は大量の涙のせいで、はっきりと祖母が見えていなかった。
「さっきの白いワンピースはやっぱりおばあちゃんだったんだね」
うっすらと見える祖母は40歳前後に見えた。仁志とはちょうど50年離れているから、初めて見る祖母の若かりし姿身だった。
「仁志。よく私だと分かったね」
祖母は優しく微笑んだ。初めて褒めてくれたようにも聴こえた。
「おばあちゃん。すごい綺麗・・・」
仁志も褒め返すように美辞麗句を駆使した。夢から醒めないように。
「仕事は? 元気でやってるの?」
「ご飯は食べてるの?」
多少の違和感はあるものの、実の母親のようなお決まりのセリフを矢継ぎ早に言った。
落涙が少し落ち着いた仁志は、ようやくはっきりと祖母が肉眼で見えてきた。
仁志は夢が醒めてしまわぬように、あまり深く考え過ぎずに仕事のことや色々なことについて素早く答えた。
「それなら、良かった」
祖母は満面の笑みを浮かべた。
「でもね。仁志ちゃん・・・」
突然こう言うと、寂しそうな表情を向けてきた。
「私が、立ち会うことは出来ない」
祖母は無念そのものと言わんばかりに、生前ですら見せたことの無い涙を仁志に見せた。
「いや・・・おばあちゃん!」
泣いて懇願する仁志を振り払うように祖母は高い天井に向かって行く。
「女の子で良かったね。仁志ちゃん」
こう言うと祖母は手を振った。
「いやだー。おばあちゃん」
仁志は寝床で一人叫んだ。夢中で泣き続けていたからか、両目まぶたは痛いほど腫れていた。
夢から醒めて、最初にスマホを見た。
朝の4時だった。妻からはあれからLINE通知は無い。先ほど送ったLINEはまだ既読になっていない。
妻の身を案じた。ひとまずは何も無いことを祈ることしか出来なかった。
フト、祖母を想った。
白いワンピース姿の絶世の美女に全ての心を持って行かれそうになっていた。祖母は賢女でもあったのだ。
仁志はまた逢いたいと思った。
【前編終了。後編に続く】