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alone【掌編小説】
※作中には、やや刺激的かつ相応しくない表現が含まれています。ご了承下さい。
バーがいくつか連なる街並みは、いつも俺の孤独になりがちな心の隙間を埋めてくれた。マスターと別れた後は、いつも少し歩いて最寄り駅に向かう。途中、夕陽が店を覆い隠すように煌々とゆっくり沈んでゆく。またそれが少しだけ切ないぶん、再び俺は独りの心に還る。結局、一匹では唯の物悲しい動物なのだと気付く。
「生まれ変わったら、自分だけの愛を探す」
マスターはいつもそう希求していた。彼の話はどんな物語よりも魅力的で、かつ逆説的で身体ごと吸い込まれるようだった。一度は婿養子として結婚するも、義理の母方から凄惨なモラハラを受け結局は離婚した。最初は関係性が良かった元妻ともいつしか関係性が悪くなった。彼にとってはそれが一番ショックだったそうだ。その'願い,には異様な魂が宿っていた。
真面目でしっかりとしたヒューマニティーを持つマスターですら、愛の形を見失うこともある。そう思わせる人間がここにいるのだから、彼の苦心惨憺だって無駄ではないわけで。二倍の年齢差があって、『死』だとか、『愛』だとか、重い言葉は俺を十字架に縛り付けるには十分だった。いや、縛り付けて彼なりの『自分みたいな人間は二度と生まれてはいけない』というメッセージ性みたいなものだったのかもしれない。
「お前は俺と一緒で優しい奴だ」こう言っては新しいお酒の飲み方を教えてくれた。
「値段が高いでしょう?」
俺がこう言うと、彼は「出世払いでいいから」とまずはグラスに口づけをするようせがんだ。今思えば一体何の出世払いだったのだろうか。
俺が美味しくその謎の酒を飲んでいると、たまに30歳代ぐらいの女性が一人で店内に入って来ることがあった。だいたいは少しアルコールが回っていた。10才ぐらいは年齢差があり、俺は完全に子供扱いをされていた。
美しい人だ。上白石萌歌をエレガントにしたような絶世の女だった。名をレイといい、一度はマスターが惚れた女性だ。
なぜそんな女性(ひと)がマスターのお店に来るのか。まぁ、バーという職業はそんなものらしい。狭い店内を見渡せば、マスターと俺とその女の3人だけが佇んでいた。
「シュウ君は大学生?」
レイさんは俺に全く興味がないというような冷徹な目をしている。
「はい。」
生まれて初めてだった。自らが若いことを拒絶したくなったのは。あと一年でもすれば社会の荒波に揉まれる青年だ。大学生だなぞと抜かさず、嘘でもついてやろうかと何回躊躇したことか。
レイさんは紗々のような綺麗な髪をかき上げた。まるで絹より美しい髪質は、これから何かを発する彼女の唇を動かすまでの伏線のようだった。
年上の女性らしく落ち着いた口調でゆったりと話を始める。
「私は、ね。大学に行きたかったの」
こう切り出すと、煌びやかな恋愛小説の序章を朗読されているような気分になった。すごく寂しいけど、中毒性のある口調だ。
「風俗嬢って、嫌い?」
俺は両手を振って、そうではないという風に彼女に返す。彼女が笑ったのが嬉しかった。マスターは知ってか知らずかうつむいてグラスの底を丁寧に洗っていた。
「風俗って、誰でも行くものなんですか?」
俺は風俗そのものに無関心を装っていたが、深いところの話をしていることに気がついた。マスターは当然の如く、苦虫を噛み潰したような複雑な表情をしていた。レイさんは赤ワインを注文するとゆっくりと口に含んだ。
「私は男じゃないから分からない。でも、心底好きで勤めている人なんかいないから」一つだけ笑うと、まるで恋が醒めたような冷たい目をした。
「仕事は楽しくなくても、粛々としなくてはならない時があるの」
レイさんはそう言うと、マスターに同意を求めるように身体を向けた。大人にしか理解し得ない会話だった。
少しの沈黙が流れて、マスターのオススメだと言うカクテルが清洌に並んだ。
「嫌だ、マスター。私、若い子に変な話聴かせちゃった。ネ。」
そう言って笑うと、彼女は年相応の女性にある特有の皺を見せた。年齢は35歳ぐらいだろうか。いや、もう少し年が上かもしれない。
「刺激が強過ぎたかな。ごめんね」
こう言うと、両手で謝るような仕草をした。いや、可愛らしい女性だ。仮に40歳だったとしても魅力的でしかない。年の離れた俺が惚れてしまう要素があった。
俺は、少し心が揺れ動いた。何の香水だろうか、シトラスか何か。'大人の女性の香り,がした。マスターが丹精込めて作ってくれたカクテルなんか、もう眼中になかった。
「レイさんって、お酒に酔うと【田中みなみ】にすごく似ていると思います」
俺は先ほどからずっと言いたくて仕方がなかったのだ。
彼女は急に上目遣いをした。こんな綺麗な女性に、俺の心を根こそぎ奪って欲しいとずっと願っていた。ただ綺麗なだけの女性は世の中に星の数ほどいる。綺麗なだけでは飽きる。ずっと一緒に居てくれそうな優しさじゃなくて、包み込んでくれるような包容力があるか、ないか。しかも、万が一間違えて甘えてくれるものなら、どんなにか可愛い女豹のような姿を見せてくれるだろう。
「ねえ、シュウ君。大丈夫?」
気がつけば、俺は意識を失うぐらい妄想の世界に入り浸っていた。レイさんのやたらと高い声が時間のずれたモーニングコールのように聴こえていた。
俺の体調が悪くなったとレイさんは勘違いをしているらしく、先ほどからマスターとばかり会話んしていた。気分など悪くなるわけがない。心が激しく揺れ動き過ぎて、むしろ気分が高揚しているぐらいだ。こんなに身体の一部が揺れ動くのは、母親の胎内にいる時以来ではないか。
楽しそうに話すレイさん。最高のカクテルで自らが会話の潤滑油になっているマスター。こんな大人達に囲まれるのは生まれてはじめてだった。独りじゃないのも。大人になることは決して悪いことではないのかもしれない。マスターのこんなに楽しそうな顔を見るのは幸せだった。マスターはレイさんのことが本当に好きなのだろう。
マスターにも、レイさんにも相応しい異性が現れるようにと心底から願った。
「シュウ!もう終電だろ。子供は早く帰れよ」
マスターはレイさんを見ながら、俺に空気を読めと言わんばかりの表現をした。
「マスター、私も帰ろっかな〜」
レイさんが、代わりにおどけて言い返す。
それを見てマスターと俺は膝を大きく叩いて笑った。レイさんは素早く口元にグロスを塗った。その姿は一見、少し妖艶で美しい。俺はしばらく見惚れていた。
【了】