不思議の国の天然なやつら【掌編小説】
※本文4,370字数。
あたしがすごした高校は、男女共学のはずなのに男子がたった一人しかいなかった。淋しいというより虚しいというより、不思議だった。今思い出しても謎だらけの世界にいたと思う。我ながら、よく中退せずに無事卒業したものだと思う。
学力偏差値が低かったからか、変に結束力が強かった。仲間意識というか。教師達はあきれを通り越して、何かを達観したような顔をしていた。
その日は3年次の授業参観だった。ママは最初で最後の参観見学で、少し気負っていた。
「莉乃ちゃん、無理して挙手しなくていいからね」
唯一好きな教科、国語の授業だったから前夜からほとんど眠れなかった。ママはさすがあたしの産みの張本人だ。表情や態度で私の心情を察してくれる。ありがたいけど、見透かされていたことは恥ずかしかった。出勤前のパパはその間、向こうを見てずっとネクタイをイジリ倒していた。
登校途中に親友のユキに会った。彼女は肩をいからせて歩いていた。
「莉乃、楽しみやねぇ。今日はあんたの好きな小説朗読の日やから、昨夜は寝れんかったやろ?」
おだてているのか、ある意味会話のマウントを取ろうとしているのか。一つ言えることは、彼女が私に何かを期待していることだった。
そう思うと私は少しだけ懐疑的になった。
「朗読する小説は、莉乃が好きな三島由紀夫やしね」
実は、来春から千円札のモデルは野口英世から三島由紀夫に代わることになっていた。最近、世界的に起こっている空前の日本近代文学ブームを牽引しているのは『幻のノーベル文学賞作家ミシマ』だった。しかし、なぜ彼が栄えある千円札の肖像に選ばれたのかは謎だ。川端や大江や芥川ではなかったのかが。一説には総理大臣が根っからのミシマフリークだというのもあった。
「国も、三島由紀夫も超変人やしねぇ」
ユキはつむじを激しく掻きむしりながら、まるでやつれた老婆のような表情を向けた。私は、いずれにせよ変な世の中であるのは確かだと思った。
学校に到着した。正門前で叫び声を上げて、いる男がいる。校内唯一の男子ヒロシだ。
彼は158cmの小男でありながら筋骨隆々の肉体派で角刈り頭という謎に満ちた奴である。
「君たち諸君に告げたいことがある」
偉そうな口を叩きながら、戦争やら自衛隊やらの事柄を詳しく説明している。
「今どきそんなの流行らないよ」
ユキが呆れ顔でつぶやく。確かに遊説なんか今どき流行らないし、そもそも周りはみんな女子しかいない。ヒロシには悪いが、相手が悪かったとしか言いようがない。そんなに自己主張を受け入れて欲しいなら、他にも男子生徒がいる高校に転校すればよい。そもそも花園でラストサムライが生きていけるわけがない。
教室に入り、担任である山本先生が挨拶をする。一瞬だけ光が差したような雰囲気になった。いつもと変わらぬ光景だ。
「今日はみんな授業参観やな。あんまり緊張せんように」
昨日、日曜日に散髪に行ったのだろうか。もみあげに少し剃り残しがある。父兄達にいいカッコしたいなら安い散髪屋なんか行かなきゃいいのにとあたしは思った。スカートの丈を短くするなと注意するくせに、自らのもみ上げの長さを調整することもできないのだろうか。ただ、新調したであろうスーツ姿はサマになっていた。
一時間目が終わり、いよいよ次の時間割は授業参観だ。自分には国語しか取り柄がない。頭の中にフワと浮かんだフレーズが余計にプレッシャーとしてのしかかった。
今の高校に入学して、両親に散々迷惑をかけて気がつけば最終学年。一時期は引きこもりとなったが、あたしを救ってくれたのが他でもない小説だった。その数ヶ月後に世界的に日本近代文学ブームが起こり、私は世間に乗っかり読書三昧の日々となった。気がつけば活字の虜となり、国語のテストは中間・期末とも90点以上を記録し、学校生活が楽しいものになった。沢山の物語を読むことで、読解力が身に付いて問題を解くことが楽しくなった。両親からも「あなたは私達の誇り」とまで言わしめた。あの感動を今も忘れない。ちなみに、両親共に小説はほとんど読まない。
10分間の休憩時間終了を告げるチャイムが教室を支配した。何か教室がザワザワとしてきた。何かが始まるのだと、体内全ての神経が反応した。
「はい、はーい。全員席に座って!」
国語専科である黒田先生が教卓をポンポンと叩いた。いつもならもう少し強めに教卓に感情をぶつけるのだが、その日ばかりは少し優しく見えた。保護者が20人ぐらいはいただろうか、教室の背後に居並んでいる。ガタイが良い黒田先生単独よりも明らかに威圧感があった。少し後ろを振り向いたあたしは一瞬だけママと目が合った。何かを懇願している瞳はいつもより目力があった。
授業参観日の黒田先生はやたらと張り切っていた。黒板に文法やら、普段常用しない漢字をスラスラと書いていく。第一、私たちは世間一般でいうところの落ちこぼれだ。難しいことは不得手である。それにしても、彼の日本語を操る姿は時として英語が堪能な人よりも理知的に映ることがある。黒田先生は何となくそういう風に見えるように意識しているような気がした。明らかに居並ぶ親御を強く意識していたのだ。普段からこうやって丹精込めているよと。まるで言語を操るパフォーマーのように。
はい。と、突然先生は手を挙げてあたしを指した。咄嗟に自分の番だと飛び上がって立った。朗読することは分かっていたのに、あまりにも緊張し過ぎて思っていたことが頭から飛んで行くような感覚だった。周囲がざわついているのが分かった。真後ろに座っているユキが笑いを堪えているのが分かった。あのヒロシが頭を抱えていた。ママは一瞬目が合うと項垂れるように隣に頭を下げていた。
「じゃあ、前田さん。朗読を始めてください」
始めてください、と言った先生の声がまるで暗闇に吸い込まれるようだった。あたしは返事をするわけでも無く、無視をするわけでも無く目をいつもより見開いてゆっくりとページをめくった。
「『仮面の告白 三島由紀夫』永いあいだ私は自分の生れたときの光景を見たことがあると言い張ってきた・・・」
あたしは空でも言える冒頭の一文を目で追った。爽やかに呼吸をしたような空気感が教室に流れた。何かが始まるような不思議さがあったが、そこからは淡々と朗読を続ける。うつむいていたが無数に何かが突き刺さるような視線を受けながら。小説を読んでいるのに、宗教本を読んでいるような感覚に陥った。緊張していたからだろうか。
一向に消え去らない緊張感は、背後から感じる無数の視線のせいで余計に増幅していった。小説のせいでは無いと心の中で叫んでいた。
感覚的には10分経ったか経っていないぐらいで黒田先生はあたしの名前を呼んだ。すぐさま反応を示し、一つ息を吐いた。あたしなりに完走できたのだ。役目を果たせた。
椅子に座ろうとした際に横目でチラと後ろを見た。ママと少し目が合った。合うか合わせまいか10数秒間迷った挙げ句、やはり見なくてはならないと思ったのだ。朗読の出来不出来では無く、しっかりと最後まで活字を目で追って読み上げたことを讃えてくれたのだろうか。目は確かに、笑っていた。
夕方帰宅したら、ママが珍しく玄関先で出迎えてくれた。出迎えてくれた、と言うよりも玄関で待ち構えていたとでも言おうか。彼女はすこぶる機嫌が良かった。
「莉乃ちゃん頑張ったね」
いつもに無く上機嫌で私を見る目は人に向ける眼差しでは無かった。私たちが普段常用している日本語を美しく扱うことはそんなに凄いことなのだろうか。確かにミシマ文学は美しい日本語を羅列した日本純文学史上最高傑作と言われている。もちろん、あたしが書いたわけでは無い。当たり前だが。
ママは、いたく感動したようだった。頭を撫でられたり、ハグをされたりした。こんなに褒められて逆に怖い。近い将来何か悪いことでも起こるのでは無いか。失明とかになって活字を追うことが出来なくなるのでは無いか。あたしは悪いことをしたわけでは無いのに、何かに追われるような恐怖を抱かずにはいられなかった。
話題はそれについて持ちきりだった。ママと二人っきり、あまりにも言うものだからそのうち面倒くさくなってきていた。パパは早く帰ってこないのだろうか。
食事になりテーブルにつき着座をした。今夜はあたしの大好物なハンバーグだった。先ほどまでの苛立ちはどこへ行ったのやらという感じになっていた。
「莉乃ちゃんは私の自慢の娘やから」
先ほどまでは、同じことの繰り返しだったりはたまた小説の内容だったりと野暮な会話だったのが真剣な目で言われると少し恥ずかしくなった。
ハンバーグを包むアルミホイルを取った途端に蒸気が優しく顔に当たった。
「頬、赤らめて照れて」
よくある家族の光景だった。小説を知らない頃あたしはあまり褒められたことは無かったから、単純に褒め慣れていないだけだったのか。ただ、褒められることは悪いことではないようだ。
「大学はどうする? 莉乃ちゃんが行きたいなら、ママもパートの日数増やしたりするけど」
まだ進路について真剣に考えておらず、ママからすれば今日をきっかけに大学進学はどうかと言うことだろう。
「大学って、楽しいの?」あたしは怪訝な表情でハンバーグを一口頬張った。
ママはあたしをじーっと見つめるなり、一つ優しく微笑んだ。
「三島由紀夫の研究が出来るよ」
口の中で、えっ、と言ったあたしはハンバーグのミンチが思わず前歯に挟まった。
ママは矢継ぎ早に言葉を続ける。
「男子だって沢山いるし、楽しいキャンパスライフが待っているよ」
こう言われたあたしは、小男で筋骨隆々の角刈り頭つまりヒロシを思い出していた。
大学には夢があるらしい。そして、ミシマ文学を研究する教授がいて、今よりもさらに三島由紀夫を知ることが出来るらしい。こんな感じで良いイメージを抱き始めていた。
パパが帰ってきた。
ママからLINEか何かであたしの様子を聞いていたのか、満面の笑みを浮かべていた。
「莉乃ちゃん、頑張ったらしいな」
こう言って彼は握手を求めてきた。よほど機嫌が良かったのか、ママから良いように伝えられたのか。
パパは食卓のテーブルについた。
話題はあたしの進路について、両親はここぞとばかりに結論を出させたいようだった。進路先の候補の一つとして大学は決して悪くは無い。せっかく好きなことだって見つかっているわけだし、それは幸せなことなのかもしれない。
「また引きこもりですか?」
煮え切らない会話を制するようにママは少しだけ苛立った。あたしは無言で彼女を見つめるなり、またそうなるかもしれないと思いながら視線の先にある部屋の窓を見つめていた。
【了】