令和の風船おばさん【掌編小説】
※本文1,963字。
僕たちは今日も一人の女性に魅せられる。彼女はいつも携帯電話片手に大きな紙袋を引っ提げて忙しそうに見える。年齢はいくつだろう。顔に無数のシワがあるから、40歳は超えているのだろう。
小学校の休み時間にみんなで外を眺めていたら、何やら彼女は携帯電話片手に校門の前で話をしていた。
「もしもし。私です。今週日曜日ですね。かしこまりました・・・」
風船を背中につけて空を飛べるらしい。おばさんはその風船をレンタルする仕事をしているそうだ。背中に風船なんかくっつけて本当に空に飛べるのだろうか。人の体重が重くて途中墜落しないのだろうか。おばさんはとんでもない商売を始めたものだ。地元でおばさんは有名人だから、空を飛んでいたらすぐに下から顔をさされてしまう。
ある日の下校中に僕たちは、おばさんの飛行直前シーンを目撃した。
広い公園の隅で必死に空気を入れていた。
「おばさん。今からお空飛ぶの?」
おばさんは目を見開いて驚いた。突然、大空から鋭い斜光が刺した。僕たちは見てはいけないものを見たような気がした。
「ええ・・・っと」こう言ったおばさんは意外にも優しい笑顔を向けた。
「風船好き?」
「うん」僕たちは、おばさんの目を見て頷いた。
「君たちも、風船つけてみる?」
「うん! つけてみる!」
僕と、大輔とコウくんは嬉しくて笑みをおばさんに見せた。
そうは言ったものの、内心ではお母さんの一言が頭に浮かんだ。
【風船おばさんには気をつけてね】
おばさんの誘惑と、お母さんの警告ー。
僕の脳と心は激しく揺らぎ、一瞬で体が遠くへ飛んで行きそうだった。
風船を背中につけて空を飛ぶなんて、これから先も経験出来ないかもしれない。いや、でも・・・。
「翔一どうした?」
大輔は怪しむように僕の顔を覗きこんだ。
「いや。何もない」
何もないわけないのに僕は大輔にウソをついた。風船つけて飛んでみたものの途中墜落して死ぬかもしれない。
大輔とコウくんは風船おばさんに従い背中に風船をつけた。おばさんと一番最初に目が合った僕が一番目に風船をつけて貰うはずだった。そう思うと、僕は少し距離を置いたまま立ち尽くしていた。
「君も、おいでよ」
おばさんはこう言って僕を大輔とコウくんのところにくるように手招きをした。
あそこにいけば、僕は絶対に飛ばなくてはならない。そう思うと急に心臓の鼓動が激しくなった。
「--はい。装置完了」
おばさんはそう言うなり、僕の両肩を軽く叩いた。
思っていたよりも装着はしっかりとしていた。風船をつけた太い紐は意外にも両肩に背負うと負担は感じなかった。大きな風船は体重によってその数が違うらしく、僕たちはそれぞれ、4つの風船が太い紐に括りつけられていた。気がつけば両足に鉛のような重りをつけられて、まだ飛ぶことはできなくなっていた。
「じゃあ、お空飛ぶ準備するよ」
おばさんは慣れた発声で威勢よく言うと、両足の重りをゆっくり外した。
「うわぁ」
僕たちは嬉しさと興奮のあまり声を上げた。風船が持つ浮力は思ったよりも強かった。まるで、背中に羽が生えたようなフワフワした気分だった。一気に気持ちまで浮き足立った。
僕はもう、お母さんの言葉なんか頭ごと完全に飛んでいた。
「さあ飛ぶよ!」
おばさんの今日一番の大声で僕たちは空を飛んだ。ある程度の高さまでは、遊園地の乗り物のような気分だった。僕たちは大声を上げた。おばさんはそれを見て高笑いをした。まさに空は自由だった。
激しい耳鳴りに襲われたが、空を飛ぶ快感がそれを遥かに上回っていた。
しばらくして、上空の高さが分からなくなったあたりから、一緒に飛んだはずのおばさんの姿が見えなくなった。僕たちは大声で「風船おばさん!」と叫んだ。
「大輔。風船おばさん見えた?」
大輔は今にも泣きそうな顔で僕を見た。コウくんは「もう帰りたい」と言うなり真下を向いていた。
「翔一、お前が風船おばさんに声かけたからこんなことになったんだ!」
突然、大輔は僕にこう言ってきた。
原因はもとより、上空でケンカなんか絶対危ないに決まっている。僕は不思議にも冷静で、頭の中でそう考えた。
「降りよう・・・」
僕は、大輔とコウくんに言った。
そうは言ったものの、降り方が分からない。万が一のことを考えて、おばさんに訊いておくべきだったと後悔した。
「俺たち、どうなるんだよ!」
ついには、冷静だった僕まで泣いて叫んだ。
「はっ」
僕は自宅のベッドから起き上がった。
「翔一! 翔一!」
傍らからお母さんが僕を呼ぶ声が聞こえた。
「翔一、さっきからずっとうなされてたよ。何か悪い夢でも見たの?」
お母さんは明らかに怪しんだような表情で僕を見ていた。僕は急に胸のあたりがザワザワとし、なぜか風船おばさんにもう一度逢いたくなった。
【了】