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レモン水

「あと3日で死ぬ」と言われたら本気で生き始める、的なことを何度か聞いた気がする。
確かにね。
私ならその3日間、ひたすら捨て続けると思う。
3日で時間が足りなければ、もう少し時間が欲しいと願うだろう。
だがそれは「もう少し生きたい」、のとは違う。

いつの頃からだろう、私が「生きたい」と願わなくなったのは。
そもそも、「生きたい」と願ったことがあっただろうか?
病気も何度もした。
子どもがまだ親を必要としていた時期は、「何としてでも生きなければ」の一念だった。
その時ですら「生きたい」とは思ってなかったのだと、今更ながら気づく自分がいる。
そのような肉体的な苦しみの中では、「苦痛から解放されたい」=「生きたい」でもなく、「苦痛から解放されたい」=「死にたい」でもない。

こんな考えの自分は罰当たりな人間なのだと、何度自分を責めただろう。
有り余るほどの富を持つ人間が、その価値に気づかないのと同じではないかと。
そんな自分が子供を産んだのは、
「生きたい」と生きる自分になりたかったからなのか?

朝目覚めると、頭の中の日めくりカレンダーを一枚はがす。
肉体の終わりが訪れるのは確実とはいえ、それがいつかはわからない。
ゴールのわからない一日の始まりは、当月当年の終わりが見えない日めくりカレンダーをはがすのが相応しい。

時間は本当に過去から未来へと流れているのだろうか?
過去も未来も存在しないのではないかと、そう思う瞬間がある。

生まれた時がスタートで刻々とゴールに向かって生きている、と思っていた。
物差しの端っこが「誕生」で、反対側の端っこが「死」だとすれば、誕生と死は触れ合うこともない無関係なものなのか。

それだと生命は継続しないはず。
花は咲いて枯れるけど、種は地面に落ちて次の芽吹きに備える。
朽ち果てた花も、そのうち地面と同化してゆく。
そう、生と死は溶け合っているのだから。

「愚かさを、いい加減さを、無責任さを、見つめ続けることが出来ない自分を」、曇りガラスの向こうから眺めるだけの自分。

智恵子にはなれぬ我  レモン水飲む

下手な俳句を詠んでみる。
これもまた、卑怯なり。



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