海の底の喫茶店
誰にも見つかりたくないのかと思うような、目立たない入口。和風でも洋風でもない、シンプルなドア。香ばしいパンの匂いと海しか見えない窓。あの喫茶店は、いったいどこにあったのだろう。
あれから何度も同じ道を行き来するのに、どうしても見つけられないのだ。
日課の買い出しに行こうと玄関を開けると、あまりのまばゆさにくらっとする。「ああ、空と言うものがあったんだ」とゆっくり頭を持ち上げると、雲一つない空が目に入る。爽やかで深みの無いその水色を見たとたん、身体の中で何かがプツンと切れる。買い物だけがわずかな息抜きになのに「行く前に落ち込んでどうする」と自分に発破をかけ、エンジンをかけアクセルを踏み走っていると、いつもとは真逆の方向に進んでいるのに気付く。それから15分も走ると海が見えてきて、「Uターンしなきゃ」と気持ちは焦るが止められない。
フェリー乗り場近くの無人駅を通り過ぎ次に表れた三叉路を、左に曲がる。それから次の角を右に進むと上り坂となり、1分も走らないうちにそれは現れた。走行車線の反対側の内カーブに、わざわざ降り立たなければ玄関が見えない造りとなっていたのに、その建物が目に入ったのだ。一旦は通り過ぎたがどうしても気になり、思い切ってUターンする。建物横の舗装もしていない小道の奥に、駐車場のような空き地が見える。車を置いて玄関らしい場所まで歩きドアを見ると、手作りらしい「violin」と書かれたプレートがかかっている。ドアの横の壁の張り紙に営業日が書いてあるので、どうやら何かの店のようだ。
質素だが感じの良いドアを押すとカランカランと音がして、それを聞きつけた上品な女性が奥から現れた。他に客らしい人は見当たらないので「入っていいですか?」と聞くと、「どうぞどうぞ」とにこやかに迎えてくれる。靴を脱いでスリッパに履き替えるようになっていて、それもまた新鮮な感じだ。入るや否や、香ばしいパンの香りに驚き、次に正面の窓に広がる海に驚く。山の途中に建つこの建物からは、海しか見えない。高台から見下ろす一面の海が、さっきまでのよどんだ気持ちを少しずつろ過していくのを感じる。
窓を見つめたままぼんやりしていると、店主らしい女性が「お好きな椅子にどうぞ。お飲み物はコーヒーしかないんですよ。それと手作りのパンがあるだけです」と、パンの並ぶ棚を指す。
特にパン好きでもないので、「とても良い香りですね。どんなパンなんですか?」と聞いてみる。「天然酵母を使っていて、こちらがいちじくのパン、こちらはくるみのパン」と、穏やかな微笑みを浮かべながら答えてくれる。
いちじくは見た目も好きではなくて食わず嫌いだったが、母の好物だったことを思い出し食べてみることにする。
テラス席があることに気づき外に出てみると、目の前の海が近づいて来る気がして、ちょっとだけ怖くなった。
どこに座っても海しか見えないけれど、真ん中より左寄りの丸い籐の椅子に引き寄せられ座る。車で20分の所にこんな素敵な喫茶店があるのを知らなかったなんて、不思議でならない。海から目を離せないまま、コーヒーをこくんと飲み込み、いちじくのパンを小さくちぎって口に運ぶ。
どのくらい経っただろう、「向こうにぼんやり見えているのは、本州なんですよ。日によっては、もっとはっきり見えるんです」と後ろから声がする。声の主は店主の女性で、その海の向こうのどこかを思い浮かべながら話しているようだが、そのことが楽しそうにも懐かしんでるようにも見えないことに、ちょっとした違和感を覚えた。
「この家は、亡くなった娘のために建てました。事故だったんです。天気の良い日は海の向こうに、娘が住んでいた町が見えるんですよ」
返事をしかねていると、また話し始める。
「芸大の学生でした。レッスンの帰りに事故に会い、即死でした。ええ、バイオリンをやってましてね、将来はオーケストラで演奏するのが夢だったのに・・・・」
「あ、それで店の名前が『violin』なんですか?」
「はい、そうです。お客さん、奥の部屋を見てもらえます?」
「部屋?」
「この家に、娘の部屋を再現したんですよ。家具もブラインドも本も洋服も、全て持って来ました。生きてる時と同じなんです」
案内されたその部屋に入ると、なんだか水槽を覗いているような、というより水槽に入り込んでしまったような、不思議な感覚を覚えた。
黙って部屋を後にして元の椅子に座った私に、店主が再び話し出す。
「娘が死んで気が狂いそうな私は、目的もなくこの山道を車で走っていたんです。そしたら突然『ここよ』と娘の声がしましてね、この場所に家を建てることにしました。元々パンを焼くのが趣味だったんですが、この山の家でパンを焼いていたら売って欲しいと言われるようになったんですよ。週に一日だけなんですが、今では結構遠くからも来られるようになりました。まさか私が喫茶店をやるようになるとは、思いもしなかったです」
「そうだったんですか、素敵なお店ですね」
私は少し残っていたコーヒーとパンを口に入れ、お土産用のクルミパンを購入した。店主と私はおそらく同年代だろう。お釣りをもらう時、一瞬だけ目が合った。
「あんた、どこに行くつもり!」
道を探してのろのろ運転をしていると、地元の女性らしい人が血相を変えて叫びながら走って来る。
車を止め窓を開け「私に言ってるんですか?」と聞く。
「あんた以外に誰もおらんじゃろが。このまま進んだら、引き返せんことになるよ。何を考えとるんじゃ」
「すみません、前に行った喫茶店を探してるんですよ。この道で間違いないと思うのに、どうしてもわからないんです。『violin』という店をご存じないですか?」
「・・・・前に行ったって、いつのこと?」
「先月です」
「そんな馬鹿な ! その店なら確かにあったけど、もう50年も前のことよ」
「え?手作りのパンを売ってるお店ですよ。娘さんが亡くなったと話されていて・・・・」
「そう、その店ならあったけどねぇ。50年前の大雨のあとの台風で土砂崩れに巻き込まれて、奥さんも行方不明のままなんだよ」
「そんな・・・・」
「今あんたが行こうとしている道は、道じゃないのよ。あの時土砂が流れた跡なんだ。そのまま進んだらタイヤが砂に埋もれて、抜け出せなくなるの。ちゃんと進入禁止の札が立ててあるのに、なんで入ってくるのかねぇ」
呆然としている私を見かねて「早くバックせんかい、タイヤが埋もれかけとるよ」、とせかす女性の顔は恐怖でこわばっている。
我に返ってバックしようとするが、タイヤが空回りしてますます砂に埋もれていくようだ。パニックになりながらバックを繰り返していると、砂に埋もれていた何かにタイヤが引っかかって何とか脱出できたけれど、力尽きてしばらくは物も言えないほどだった。
安全な場所まで車を移動させ、「助かりました」と女性にお礼を告げる。
「あんた暗い顔をしとるけど、気をつけなさいよ。あんたのその波長が、奥さんと引き合わせたんかもしれん。あんたなら自分の気持ちをわかってくれると、思ったんじゃないのかな」
確かに、お釣りをもらうときに一瞬合った目は、どこかで互いの苦しみを理解していたように思う。
私もまた、事故で重度の障害を持つ子供を世話し、先の見えない生活を続けているのだから。
バック出来たのが何のおかげだったのか知りたくて、その場所まで戻ってみる。少し砂を掘り起こしてみると、木製のプレートが出て来た。
そこに「violin」と書かれているのが読み取れて、女性と私は同時に「あっ」と叫び声をあげていた。
「これって・・・・」
「50年前に流された店のだよ。こんなところに埋もれていたんだ」
「どうしたらいいでしょう?」
「あんたはもうかかわらない方がええよ。うちは漁師じゃけんな。明日の朝漁に出る時に持って行って、沖に沈めておくよ。あの奥さんもずっとこれを探しよったんじゃろ」
「そうしていただけると嬉しいです。親切にしていただいて、ありがとうございます。あなたのお名前は?」
「二宮だよ。早くお帰り。もうここへは来るんじゃないよ、いいね」
何度もお辞儀をして車の所に戻ると、怪訝そうな顔の女性が立っていた。
「あんた今誰かと話しているように見えたけど、独り言じゃったの?」と聞かれる。
「いいえまさか」と笑いながら答えると、女性の顔が曇るのがわかった。
「私はさっきからあんたを見ていたけど、ずっと一人でしゃべってたよ」
「この辺りの漁師さんで、二宮さんという方と話してました」
「いったい何を話していたの?」
50年前に流されたはずの喫茶店に行った話をする気にはなれず、バック出来ずに困っていたら、砂に埋もれた木のプレートのおかげで脱出出来たことだけを伝えた。そしてそれは50年前に流された喫茶店の「violin」と書かれたものだったことを付け加えた。
「二宮さんが明日漁に出た時に、海に戻しておいてくださるそうです」と話すと、女性は小さく悲鳴を上げた。
「あんた早く帰りなさい。その二宮さんというのは、土砂崩れの巻き添えになって亡くなった人だよ。夕暮れ時に時々見た人がいるとは聞いていたけど、本当だったんだね」
「まさか、そんな・・・・」
「二宮さんは女学生の頃、学徒動員で広島に行っていてね。そこで被ばくしたんだよ。結婚して子供を産んだんだけど、10歳にならないうちに死んでしまったそうなんだ。そういうこともあって、喫茶店の奥さんとも仲が良かったらしいよ。そうかいそうかい、奥さんの代わりに「violin」のプレートを見つけてあげたんだね」
「・・・・」
「あんたの事情は知らないけど、このことはもう忘れるんだよ。二度とここへは来るんじゃないよ」
「はい、わかりました」とだけ答え、夕闇迫る海岸を、何かを吹っ切るようにアクセルを踏み続けた。
「帰ろう」重度の障害を持つ娘の待つ家に、「帰ろう」
自分が死ぬか、娘が死ぬか、どちらが先にいなくなるのかなんてわからない。この先もずっと、楽しいことなんて起こらないだろう。だけど生きなくてはいけないのだ。
「死ぬまでは生きる」、そう決めてアクセルを踏むことだけを考えていた。
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