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旅支度と六文銭

夏の旅行に行った。
行先は伊東。伊東は近くの観光地、熱海・箱根・伊豆より格段に寂れている。駅前は小ざっぱりしていて、商店街もシャッターを下ろしたままの店が多い。プールや大きな温泉を目的とした子連れや、3世代と思われる大所帯の観光客も多いが、駅前の落ち着き具合と同様に、酸いも甘いも嚙み分けた年齢層の客が多い。どこを切り取っても、騒がしくなくて、私にはちょうど良い。

私は旅行が好きだが、旅行そのものよりも、下手をしたら旅行の準備の方が好きだ。着替え、アメニティ、本、お菓子・・・何を持って行くか考え準備をするのが、たまらなくワクワクするからだ。旅行日数よりも、準備の方が時間をかけるし、前日の夜は、いつも以上に寝つきが悪いが、決して悪くはない高揚感に包まれている。

さて、旅行の準備をしていて思った。
多くの日本人は、死んだら、死装束をする。白い着物、白い足袋、杖、烏帽子、六文銭・・・宗教によって違いはあれど、それらは葬儀屋さんが準備している場合がほとんどだろう。しかしながら、死装束を自分で準備をする人もいるのだろうか、と思いがよぎる。
人が亡くなることを、旅立つと表すこともあるが、旅行先で着る服を選ぶことと、長い人生を全うし現世から旅立つ装束を選ぶことは、一見、似ているようだが、死装束を自分で決めたという話は聞いたことがない。
何故だろう。
一つには、死装束にはバリエーションが無いから、(色は白一択だから)自分で選ぶ必要が無いからだろう。
もう一つには、亡くなった直後に葬儀屋が決まったら、とにかく真っ先に、有無をも言わずに、死装束にされてしまうからだろう。
更にもう一つ、死ぬこと、死にまつわることを、旅行の荷造りのように明るく考えるということに抵抗感がある人が多いからだろう。
最近流行の終活の中に、死装束を選べるオプションが付いた葬儀プランがあっても良いのではないかと考えた。
そして頭の中で、諸般の事情から数年会えていない99歳の祖母との会話をシミュレーションしてみた。
「おばあちゃんはどんな死装束がいい?」
「・・・」
お墓のことは家族や身内で生前に話せても、死装束について話すのは、気が引けるのも分かる気がする。
祖母は私のことを認知してくれているが、認知症気味ではある。
それを差し置いても、孫に死装束について聞かれたら、脳が反応を示し縁起でもないと思うだろう。会話を聞いている親類からも、今以上に変わり者扱いされることになるだろう。

私は旅行の荷造り、出張の荷造りをするとき、ワクワクするとともに、人生の最期に持っていたもの、つまり遺品になる可能性を、僅かではあるが考える。だから、悲しい本は持ち歩かないようにしているし、割と好きな服を選ぶようにしている。
もちろん無事に旅行先、出張先から帰ってくるので、気に入った服が洗濯カゴを埋め尽くし、天候に恵まれないと、数日の間、どうでもいい服を着て過ごすことになるのだが。

ただの旅行と、現世からの旅立ちは、似て非なるものだが、六文銭を握りしめ、生きている間ずっと旅行の準備をしている期間だと思えば、一生ワクワクしていられることになる。
という考えは達観しすぎか。




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