天神さまの悩み 1回目
このたびは ぬさもとりあえず たむけやま
もみぢのにしき かみのまにまに
菅原道真の百人一首です。
歌の意味は
今回の旅は急にきまり、神様に捧げるぬさを用意できませんでした。
手向山のまるで錦のような紅葉を捧げるぬさとして、神の御心のままにお受け取りください。
菅家、菅公、菅丞相、天神様。
菅原道真のイメージは学問の神様が多くの人のイメージと思います。
頭の良い方が何故怨霊となり、臣下で初の神として崇められるのか?その辺りを書いていければと思っています。
僕は彼の生涯の中で、
阿衡事件(あこうじけん)/(887年〜888年)あります。
好きな所から書いていくのが、僕のスタイルなので、この事件から書いていくことにします。
◯登場人物
・菅原道真(すがわらのみちざぬ)
42歳 文章博士→讃岐守
・藤原基経(ふじわらのもとつね)
51歳 太政大臣→関白
・橘広相(たちばなのひろみ)
50歳 現文章博士
・宇多天皇(うだてんのう)
20歳 今上天皇
当時、菅原道真は讃岐の国(今の香川県)の国司として赴任していた。
道真本人は宮中の文章博士の地位にいたので、讃岐に赴任する時は左遷なのかと思っていた所がある。
そんな中、太政大臣の藤原基経が天皇の補佐である関白に任命する時に事件が起こりました。
位に任命される時、三度は辞退する習慣があり、基経も一度辞退し、二回目の時に、橘広相の書いた関白任命の勅書に
「阿衡の任ももって、卿の任とせよ」
と書いてありました。
阿衡とは中国の役職で、最高位であるが、名前だけの地位であったので、
基経自身が「もうわしの用は無いとのことだな。けしからん!」とのことで、
今後の政務を行わなくなりました。
即位したばかりの宇多天皇や側近は大慌てです。なんといっても藤原家は最高権力者です。
そっぽ向かれると政務が止まってしまうのです。
何とかならないかと天皇も側近も右往左往していて、阿衡の表現が悪かったと認め、橘広相を罰した形にします。それでも藤原基経は怒りが収まりませんでした。
そんな噂が道真にも流れてきてきました。地方にいながら道真は都から依頼がたくさんあったとのことです。
そうして道真は基経に諌める書状を書き、届けました。内容は政務を放棄することを続けると藤原家にとっても良くないとのでことです。
基経もこれを読み「怒りを収める潮時だな」と言い、政務に復帰しました。
この話のポイントは、
太政大臣の藤原基経は勉強好きな人で、よく自邸で、講演を行い、詩会を開き、博士を招いていた。その中で菅原道真も出席していた。
道真に政事の文章の作成を依頼していた。
好きか嫌いかは別でお互いよく知っていたと思われる。
その中で中国の官職の阿衡のことをしていたいました。
他の人はあまり気にはしていなかったみたいです。
もう一つは宇多天皇との仲です。
宇多天皇は臣籍でしたが、親王に戻った異色の即位をしています。宇多天皇の母親は皇族であり、藤原家と関係がない為、藤原家はあまり良く思ってなかったと思われます。
宇多天皇はのちに「寛平の治(かんぴょうのち)」と言われるほどの名君でありました。
藤原家は基経は51歳、息子の時平は16歳とまだ若く、優秀な天皇の政治が長く続くと藤原家の力が落ちると思っていたと思います。
その中での阿衡事件といういざこざがあり、後の宇多天皇と藤原家の確執か生まれました。
その中で菅原道真は讃岐の国から戻ってきます。
宇多天皇と藤原家の確執に巻き込まれることになります。
次回は遣唐使の廃止から右大臣になるまでを書きます。
続く