killer7の獅子あたりについて
5万貸してくれ。
はじめに
「あれめちゃくちゃ面白いスけどぉ、まったく意味分からんスよね」
隣の男が言った。時計は22時を回っていた。
行きの新幹線から数えて、もう12時間は飲み続けていた。いい加減グラスを置いてもいい。そう思った。だがそうしてどこへ落ち着いたらいいのか、私には分からなかった。
多額の支払いを要さず我々を歓迎してくれる場所。ソファ、ベッド、女、犬、あるいは、ゴロゴロのじゃがいもがゴロゴロに入ったカレー。そういったものは、我々の半径400kmには存在しなかった。やがて至るべきそれらの楽園が、いつの間に視界や指先から滑り落ちていたのか。それすらもう分からなかった。
どうやら記憶のテーブルに載った事柄だけが、分かると言っても差し支えないらしい。今日一日何を飲んだか、私は思い出してみた。はじめはビール。次もビール。岩手から取り寄せた缶を新幹線で空けたら、電車を降りてゲストと合流し、早くから開いているパブで今度はアメリカのIPAを飲み干した。その後地下街を縦断して、給仕の制服がかわいいといって当時の私が気に入っていたカフェに移った。アルコールを摂取しなかったのはそのときだけだ。我々はそこで、少しばかり深刻な話をしなければならなかった。やがて刻限が来てゲストが帰ると、所帯持ちも離れたし、せっかくだから次は華やかな店にでも行こうかと話したのだが、結局は気が乗らず、私が東京で知ったモルト・バーの系列店に寄ることにした。
商店街の奥に構えたその店をドアのガラス張りから覗くと、祭りの夜を空き瓶に詰め込んだみたいな様子だった。内装はウッド調で、潜水艦のキッチンみたいに入口から奥へとスペースが伸び、カウンターとスツールが並んでいる。客が入って足の踏み場もないくらいに見えるが、それが白熱球に煌々と照らされると、なんだか心地よい賑やかさにも感じられる。
聞けば空席があるらしい。我々はバーテンダーに案内され、壁と客の背中に挟まれて蟹のように歩いて、なんとか奥の席にたどり着いた。
男はそこでグレンモーレンジのハイボールを頼んだ。彼にウイスキーを教えた人物によると、グレンモーレンジのもっとも美味い飲み方はソーダ割りだという。
「ソーダを多めにするんです」
彼は言った。私は曖昧に頷いて返し、キルホーマンのロックを頼んだ。
密林で愛撫しあう蛇みたいな軌跡を残して、グラスの中で融け出した氷が黄金色の液体に絡んでいた。それを眺めながら、私は彼にウイスキーを教えた人物になれなかったことを残念に思った。間違いなく、これまで私は彼にいくつかのことを教えてきた。飛び抜けてお洒落とまでは言わないが若者らしい服の着こなし。うまいベルジャン・ビア。熱中できる趣味。だが、ウイスキーの話をしたことはなかった。もし私が彼にウイスキーを教えていたら、今ごろ彼は、ピート香のしないウイスキーを飲むことはしなかった。
男は私の学生時代の友人で、詳しく言えば、一学年差の先輩後輩だった。我々の間にはある程度の分別があり、ある程度の傲慢と受容があり、そして大きく破滅的な波があった。我々は多くの休日をともに過ごした。飯を食べ、夜を徹して遊び、ある日突然疎遠になった。ウイスキーの話をする前に。だが、旧い友人というのは大体そういうものだった。人生のあるとき、恋人さえも入り込む余地のないほど、互いのことだけが面白い相手が出来る。ほかの世界が色褪せるほどに親しくなったかと思えば、今度は渋い顔で一切の連絡を断つ。そうしてもう二度と会うこともないと思っていると、何かの拍子に時計が巻き戻る。
家を持たない子供たちが日の暮れた後も遊び続けるみたいに、我々はバーで話し続けた。この街で過ごしたときのように。話す内容も、あのときと変わらなかった。幸福な成功を称え合い、些細な失敗を笑い合った。そして我々は、「killer7」のことを話した。なににつけても、それは我々にとって思い出のタイトルだったのだ。
「killer7」が何か、ということは後にもう少し詳しく述べる。大事なのは、我々はともにそのゲームを遊んだことがあり、寝食を忘れるほど熱中したことがあり、しかし我々以外のプレイヤーを目にしたことが一度もないということだった。
「ダニー・ボーイ」と男は言った。
「ピンク・アス・パンク」と私は言った。「ユー・アー・ゴーイング・ダウン」
キルホーマンのグラスは空になっていた。私は笑って言った。
「もちろん、全部分かるなんてとても言えない。でも、決してまったく分からないということもない。少なくとも、ガルシーの物語は理解できるよ」
それから私は、委細を説明しようとした。だがうまくいかなかった。私が「killer7」について検討を重ねていたのは、もう何年も前のことで、アルコールの霧に覆われた森からそれを引き出すことはとても叶わなかった。記憶のテーブルに載った事柄だけを分かると言ってよい。ただ、考えたことがある、ということだけは刻み込まれていたから、私はそのとき、ある種の自信を持って応えるには応えなければならなかった。だが、果たしてそれは彼を、そして私自身をも失望させることになった。
「帰りてぇ」
男は言った。
「あの頃に帰りてぇ」
全てが終わり、東京に戻ってから私は過去の記録を掘り起こしてみた。すると昔に残したメモ書きを見つけた。ここに、その内容を清書していこうと思う。繰り返す我々の友情のために。
注意
本テキストはフィクションです。
本テキストはビデオゲーム「killer7」のネタバレを含みます。
改めて、「killer7」とは
「killer7」とは2005年にカプコンから発売されたゲームキューブ、及びプレイステーション2用のビデオゲームである。あまり中古市場でも見かけなかった(特にGC版はプレミア化していた)が、現在はSteamで遊ぶことができる。
ジャンルは「多重人格アドベンチャー」。CERO:Z指定。
プレイヤーは、殺し屋ハーマン・スミスを操作し、彼の持つその他7人の人格を入れ替えながら、「合衆国」に迫るテロリズムに立ち向かう……んだが、運命は彼らを思わぬ結末へと導いていく。
設定も奇抜だが、ビジュアルも奇抜で、プレイ内容もまた奇抜である。そんな奇抜さに輪をかけて、物語は難解である。適当な喩えではないかもしれないが、ひとつひとつの演出はクエンティン・タランティーノが担当しているのだが、全体はデヴィッド・リンチが監督しているみたいなゲームなのだ。というのも、開発であるグラスホッパー・マニファクチュア(GHM)の味付けがとても濃いことが影響している。
歴史的なことに少し触れておく。「killer7」はカプコンがGC独占タイトルを多数発表したプロジェクトの中の一作であり、「バイオハザード4」、「ビューティフル・ジョー」などと合わせて2002年に制作発表がされた。だが、その後開発は難航。完成品を見ると、発表時の内容から削除された要素も多く見受けられる。
もう一点。副読本として、「Hand in killer7」という書籍がある。副題はKill the past, Jump over the age.
93の虚構と7の真実、と帯にあるように、ゲームの設定に関する嘘か本当かよく分からないネタがたくさん掲載された書籍で、特に興味をそそられるのが年表の存在である。1750年頃から紐解かれる、デルタヘッド家のハーマン誕生と隣人クン・ランとの関係や、人間を超えた三つ目の存在など、ゲーム内で描かれなかった設定が多く書いてあって面白い。
ただし、本テキストでは副読本からは主にインタビューの引用に留める。
本テキストのねらい〜ゲーム体験を補足する
さて、本題に入る前に、少し整理しておくべき事柄がある。本テキストの立場についてである。
本テキストでは、可能な限り、画面に映った情報をもとに「killer7」というゲームの内容を捉え直すことを目指す。なぜか?
ゲームをプレイしただけで受け取ることのできる内容に焦点を絞りたいからだ。
「killer7」は、プレイヤーを混乱させるべく作られている。そしてその通りに混乱することが遊び方なわけだが、そちらの、画面外の遊びに足を踏み出せば踏み出すほど、解釈は属人的になり、「分からなく」なっていく。
先に挙げた副読本Hik7の中で、ディレクターの須田剛一氏がインタビューに以下のように応じている。
インタビュアー
謎が多い「笑顔」ですが。どのような物語と考えればいいのでしょうか?
須田
死の狭間の物語が「笑顔」です。死の解釈は、見たまんま。時系列を整理すれば、物語の起承転結は紡げるのですが、死の重さにより事実と真実のウェイトが全然変わる。我々の生きている世界では、真実に到達することのほうが稀というか……。日常、起こり得る「さも当たり前のこと」を物語化したかったんです。その典型が「笑顔」の物語なのかもしれません。
「killer7」は、すべてに於いて“初期衝動に忠実に!”を、自らのコンセプトに掲げて作りました。それは入力装置、テキスト、システム、グラフィック、サウンドといったあらゆるパーツを会社名同様、家内制手工業(マニファクチュア)でオリジナルと呼べるゲームを作るということで、ストーリーテリングも一緒なんです。事実は人の手で作れるけど、真実は人の眼力や活力でしか到達しない世界であり領域でして、それが物語と呼ばれる類のものの起源と結論しています。ニーズを優先するような、合議制で作られた物語を「killer7」に搭載する選択が全く見当たらなかったというのが、実際のところです。
〜略〜
この本の年表は結構ぶっちゃけてるんで、事実は大体書かれています。但し、それが真実かどうかは、疑うべきです。クリアしてから真の「killer7」がスタートして、プレイヤーさんの日常に繋がることで、真実に到達するんです。テロと同様に、この物語は終わりなき戦いです。
ここでひとつのポイントになるのが、死の重さにより、事実と真実のウェイトが全然変わる、という点だ。
ゲーム終盤、多くの矛盾した情報・表現が矢継ぎ早に登場する。これらをどう捉えるかが、このゲームのひとつのプレイングになっている。
どの時点の誰の死を真実として置くか、によって、それ以外の整合性の取れない部分が真実でなくなる。真実か、意図的なフェイクか、キャラクターの捻じ曲がった妄想か、封じられた記憶か。それを選び取る「重みづけ」は、プレイヤーに委ねられている。そして、その「重さ」は日々を過ごす中で変わる。あんな出来事があったこんな出来事があった、ああ、てことは、あれはこうなんだろうな、そういうことかもしれない……そんな風に、出来事に対して感じる向きが変わることは皆様覚えがあるだろう。
そうした経験的なアプローチは、このゲームに触れたプレイヤーそれぞれに特別な遊戯体験をもたらす。須田氏の狙いもそこにある。一方で、そこに傾注することは、このゲームの持つ、ある程度普遍的に通じる要素への理解まで曇らせることにつながったのではないかという懸念がある。でなければ、全然分からない、という風には感じないはずである。
本テキストは、ゲーム終盤のガルシアン・スミスの立場から、設定を通じてではなくあくまで画面を通じて、彼に何が起こったか理解しようとする。
もちろん画面外の情報を補足することもある。だが強調したいのは、先ほど述べた副読本にのみ記載があるような設定には、なるべく触れないということだ。
それにより、プレイヤー諸兄が初めてこのゲームに触れたとき、なんだか分からないけど胸を動かされた、その「何か」の一側面を照らし出すことを目指す。
出来事の整理
では、ゲームの内容を見ていこう。まずは終盤のシナリオ、「笑顔」〜「獅子」での主要なイベントシーンを追ってみる。
「笑顔」前編
オープニング
マツオカ・ケンジロウが、屋上から飛び降りるヒロ・カサイを見届ける。家パート
サマンサ・シットボーンの死。
Forbidden Roomにて、ハーマンとクンランがチェスをしている。二人はガルシアンに気づくと怯えだす。ブリーフィング
ミルズと車内で会話。「落日」シナリオ後の日本勢力の残党が、「合衆国」の基礎を揺るがすようなテロを企てているらしい。依頼はホテルに行き、情報を知るマツケンと接触すること。
会話の途中、ガルシアンは突然、ハーマン・スミスの消失を感じ取る。と、ミルズは申し訳なさそうに口を開く。「実は30年前に……」
突然、ミルズが狙撃される。ステージ〜ホテル・ユニオン
フロント係と話すガルシアン。名前を告げていないのに行き先を案内され、不審に思って尋ねると、フロント係はガルシアンのことを覚えているという。
ヘヴンスマイルを倒していき、ガルシアンはホテルの最上階で謎の人物2名と接触する。しかし彼らはマツケンではなかった。
彼らはマツケンの身柄は既に引き渡したといい、ガルシアンに新しい情報屋に会うよう告げる。
「笑顔」後編
ブリーフィング
ガルシアンは新しい情報屋リンダ・バーミリオンと会う。リンダはミルズを殺したヒットマンでもあった。
ミルズは「政府党」の手下で、国益だけで動く下等な輩であるというリンダ。また、殺し屋キラー7が国の意思で動くということにも苦言を呈す。
リンダは自身を国を守る者だといい、ガルシアンに仕事を言い残す。「最後の仕事よ。この国のシステムを見届けるのよ。アナタの千里眼で本当の敵を見抜いて」ステージ〜コバーン小学校
校長室でガルシアンはベンジャミン・キーンと会う。キーンはロシアンルーレットでガルシアンに勝負を挑み、彼が勝ったら大統領を暗殺してくれという。
キーンは勝負に負けるが、彼もまた、ガルシアンにこの学校に眠る合衆国の歴史、因習を見届けるように告げて死ぬ。金庫
金庫を開けると、ガルシアンの額に一直線に傷がつき、血が流れ出す体育館でガルシアンはマツケンと会う。
壇上で首を吊った男が揺れている。マツケンが言うには、男は文部省長官グレッグ・ナイトメアらしい。
そして「合衆国」を揺るがす真実が明かされる。それは大統領選挙のスキャンダルだった。大統領選挙は、投票所である学校を管理している文部省によって操られていたのだ。
ガルシアンはマツケンに問う。「合衆国とは何だ? 大統領とは何だったのだ?」
マツケンが答える。「わしゃあ日本人じゃけん。そがなこと自分で考ええ。大事なぁ、自分が何者であるかじゃけんのう」
そしてヘヴンスマイルと化したグレッグ・ナイトメアと戦うことに。だが、スミス同盟の人格たちは敵わず、ひとりひとり倒れていく。やがて最後に残ったガルシアンが、他の人格には扱えなかった黄金銃を操って勝利する。ホテル・ユニオン
各階を回り、過去の出来事を追体験する。口笛を吹く人物によって、スミス同盟の人格たちが殺害されていく。
最上階の部屋で、ガルシアンは前編で出会った2人と再会する。
片方がハーマン・スミスと名乗り、ガルシアンをエミール・パークライナーと呼んだ。そして、彼はエミールの物語を始める。
エミールは13歳当時、このホテルで八雲会のメンバーを殺害した。そのときの捜査関係者が、事件の戒名としてエミールのことを「Killer7」と呼んだのだった。
エミールの起こした事件は、国家機密に触れたために公表されることはなかった。エミールは、国家に管理された殺し屋だったのだ。しかしハーマンが彼を保護したとき、エミールは制御不能の状態に陥っていた……ホテル・ユニオン屋上
そこには、額に第三の目を開けた、かつてのエミール・パークライナーの姿があった。
ガルシアンがエミールの瞳の目を撃つと、額の目が閉じられる。と、画面が切り替わり、エミールが自らを撃ち抜く姿が映される。
エミールは倒れ、あとにはガルシアンが残される。自分がやったことではないと動揺するガルシアン。だが、彼が鞄を開けてみると、中には他の人格たちの武器が入っていた。
獅子
3年後
黒いスーツに身を包んだエミールが、車で戦艦島を目指す。ヘヴンスマイルを倒して奥へ向かうと、そこにはマツケンが待っている。
マツケンは言う。アンタらの仕事は もう終わりじゃ。殺す必要はありゃあせん。この奥におるんが最後の“笑う顔”じゃ。ホンマの親玉よ。親分殺りゃあ根絶やしじゃけんのう。世界はテロの恐怖から解放されたんじゃ。しかしな テロが自然の摂理じゃったら――アンタ どうすんね? 儂を殺るんなら今のうちじゃ。アンタみたいな力ある殺し屋でも――よう容赦はせんけェのう。覚悟して待っちょれ。血の代償は血で拭うしかないんよの。アンタらの母国を選ぶか――儂の国の復讐を眺めるか――アンタの好きにすりゃあええ。
エミールは選択する。マツケンを生カスか殺ルか。そして、どちらを選んでもさらに奥へと進む。
奥には最後のヘヴンスマイル……イワザルの格好をしたクン・ランらしき男がおり、エミールは彼を倒す。
舞台はさらに100年後へ。ハーマンとクン・ランが「天使」ステージで見せたようなやりとりをする。「天使」では、世界はパスポートサイズになると言ったクンだが、世界は変わらないとここでは言う。
問いと答え〜見て分かること
さて、ガルシアンに何が起きたといえるだろうか? ざっくりと言い切ってしまえば、それはアイデンティティの変化である。
ンなこと見りゃ分かる。諸兄はそうおっしゃるかもしれない。そう、見れば分かることだ。それをもう少し、詳しく見ていこうというのがこのテキストだ。
それでは、やっていこう。
アイデンティティ〜ガルシアンの問題
そもそも、なぜアイデンティティが問題になるのか? 「killer7」とは、多重人格アドベンチャーではなかったか?
その問いに答えるために、まず国語辞典(デジタル大辞泉)で単語の意味を確認してみよう。
人格
㋐独立した個人としてのその人の人間性。その人固有の、人間としてのありかた。㋑すぐれた人間性。また、人間性がすぐれていること。
心理学で、個人に独自の行動傾向をあらわす統一的全体。性格とほぼ同義だが、知能的面を含んだ広義の概念。パーソナリティー。
同一性
異なる事物が、その性質から見ると区別できないこと。
事物が時や場所を越えてそれ自身に同じであること。自己同一性。主体性。アイデンティティー。
ここで、人格の項と対応させるために、特に心理学用語としての自己同一性(自我同一性)についてもう少し調べてみる。原典に当たれなかったのでWikipediaからの孫引きで申し訳ないのだが、心理学辞典(1999)によると、 「『自分は何者か』『自分の目指す道は何か』『自分の人生の目的は何か』『自分の存在意義は何か』など、自己を社会のなかに位置づける問いかけに対して、肯定的かつ確信的に回答できること」とのことだ。
さて、こうして見ると、やはり人格personalityと同一性identityとは異なる用語である。だが、にも関わらずふたつの言葉は結びつく。しかも、「多重人格」という単語によって。どういうことか?
精神医学の分野において、ある個人が、本人の人格とは別の人格を表に現す症状のことを、多重人格障害(Multiple Personality Disorder)とかつて呼んでいた。現在は、これを解離性同一性障害(Dissociative Identity Disorder)と呼ぶ。強いストレスを受けたとき、そのときの記憶や感情を切り離すことで起こる解離性障害という症状の中で、もっとも重いものが解離性同一性障害、いわゆる多重人格障害だ、という認識である。
ここで、personalityとidentityという用語に橋渡しがなされる。多重人格がテーマとして取り上げられた時点で、アイデンティティもまたテーマたりえるのだ。
そして、ガルシアンが直面している事態を解離性同一性障害として捉えてみると、どうだろう。本来同一だったはずのもの、(この場合、人格)が、同一でなくなってしまう障害。まさしくエミール・パークライナーとガルシアン・スミスの関係に当てはまることが分かる。
MPDとDIDの交差について開発が自覚的であることは、たとえばサウンドトラックを見ても分かる。Multiple personalityとDissociative identityという言葉はともに曲名に採用されているが、特に、ガルシアンが屋上でエミールを撃ってから流れるBGMが後者なのである。
揺るがされるアイデンティティ
ここから、アイデンティティの問題がゲームの中心のひとつであるという視点で、ガルシアンに起こったことを見ていこう。
終盤、ガルシアンのアイデンティティは、三つの方向から揺さぶられる。ひとつはこれまでの生活の崩壊、ふたつめが合衆国のスキャンダル、最後が自身さえ知らない自身の過去である。
1 これまでの生活の崩壊……「笑顔」シナリオではガルシアンの周辺環境が劇変する。
サマンサ・シットボーンの死
ハーマン・スミスの消失
ミルズの死
ほか人格の消失
こうした出来事があったからガルシアンが変調したのか。ガルシアンが変調したから彼の見る世界が崩れたのか。卵が先か鶏が先かのような問題はあるが、ガルシアンが揺さぶられたことは確かである。
2 合衆国のスキャンダル
殺し屋キラー7に仕事を依頼していたのは、「合衆国」政府与党が主だった。国の依頼で動くということは、キラー7は国のために働く殺し屋だったはずだ。しかし国家の不正が明らかになったとき、そこにあった自身の基盤もまた失われた。
3 自身の知らない過去
封じていた記憶が明かされたとき、ガルシアンはかつての自分を知ることとなった。そのかつての自分、エミール・パークライナーとは、殺人鬼ハートランドとして、現在の仲間であるスミス同盟のメンバーを殺害した張本人だった。
これらの打撃を受け、大きく動揺したガルシアンは、これまでの冷静沈着な殺し屋の姿から打って変わって声を震わせる。自分の信じていた自分自身、「自分は何者か」という問いの答えが、消えてしまったのである。
しかし物語は獅子へ続くわけだが、そちらに移る前に、ホテル・ユニオン屋上でのことにさらに注目しておきたい。
ホテル・ユニオン屋上〜ある解釈
屋上のイベントは、「笑顔」のクライマックスにして、ガルシアンとプレイヤーの混乱のピークでもある。本テキストでは、最終的に、後述する「獅子」の内容から振り返ってこのイベントの位置づけを説明したいのだが、まずはここで詳しく見ておく。
屋上イベントのポイントは、ガルシアン(プレイヤー)が三つ目のエミールを撃ったあとのシーンにある。ここでは不思議なことが起こる。つまり、三つ目のエミールは、ガルシアンに撃たれた後、デモシーンに切り替わると、自らが手にした黄金銃で自分を撃ち抜くのだ。これはどういうことだろう?
ここで、3つの可能性を考える。ひとつは、それが過去の出来事(ハーマンによってエミールの暴走が止められたこと)の追体験である可能性。だが、ホテルの各階で見てきた白黒の映像と違い、このシーンには色がついている。
次に、ガルシアンとエミールが同一人物であることを示す表現という可能性。ガルシアンがエミールを撃ったはずが、エミールがエミール自身を撃つ動作に転換されるということは、そもそもガルシアンとエミールは同じ肉体だった……というわけである。カラー映像の現在性も説明できるし、先の可能性より妥当に思える。だが、それだけだろうか?
さて、ここで一点の解釈を注入したい。言い残した第三の可能性である。第二の可能性の発展でもあるそれは、ガルシアン=エミールの克己的表現、自身の過去を乗り越えようとする意思の表現という可能性だ。
なんだそれは? なぜそんな可能性が出てくるのか? その疑問を抱きつつ、「獅子」を見ていこう。
「獅子」〜エミールの復活
ステージの特徴〜問い
さて、「獅子」ではそれまでのステージと異なる点がいくつかある。ひとつは、プレイヤーが操作するのはエミール・パークライナーであるということだ。
厳密にいうと、ゲーム内で操作キャラクターがエミールである(ガルシアンでない)と表示されるわけではないのだが、黄金銃を自在に扱えることから、そう解釈して問題ないだろう。また、この点に関しては身も蓋もないことを言わせてもらうと、Hik7の記載からエミールと考えてよいと思われる。
続けて、「獅子」ステージの最大の特徴が、マルチエンディングにつながる選択肢である。
シナリオ的には、どちらを選んでもハーマンとクン・ランの戦いは終わらない、という表現のためにあるこのマルチエンディング。それはつまり、選択の無意味性に意味があるということだが、果たして、込められたものはそれだけだろうか?
ホテル・ユニオンの屋上とはまた別の、もうひとつのピークが、このマツケンとの対峙に置かれていると私は考えている。それを次に見ていきたい。
選択していない選択
そもそも、「選択の無意味性」について考えると、実はゲーム全体にその意識が通底している。言ってみればそれは、アドベンチャーゲームにおける選択肢の存在そのもののことなのだが、「killer7」では、特異なゲームスタイルがそれを不思議な形で強調してくる。どういうことか?
先述の通り、「killer7」は奇抜な操作スタイルのゲームだが、特によく言及されるのが、キャラクターの移動である。
3Dで表現されたキャラクターが、スティックを倒せば自由に歩き回る……というのではない。前進ボタンを押している間だけ前進し、道が分岐すると、どちらに曲がるか選ぶシステム。これは、須田氏も言及しているが、テキスト・ベースのゲームが好きなプレイヤーにも遊んでもらえるように、という仕掛けである。
この操作システムは、プレイヤーが「自由に」マップを歩き回ることを禁じる一方で、「道を選択する」ことを可視化させる。ここにも選択があるのだ。にも関わらず、どの道を選んでも、特にゲーム進行上に変化はない(というか、魂弾のようなキーアイテムを集めるよう、ゲーム的に管理されている)。
「無意味な選択」という意味で、道中におけるこうした選択は、マツケンとの対決時に似る。だが、似ているだけで、そこには大きな違いがある。道中の選択は、結果に責任のない選択ということである。
突然、ここに大きな意味が宿り始める。結果に責任のない選択。それは、単に、アドベンチャーゲームとはそういうものだから、という形式的な理由を超えて、ガルシアンが合衆国の依頼を受けて仕事を遂行する殺し屋に過ぎないことを反映していることに気づく。
ガルシアンはプロの殺し屋で、過程に関わらず仕事を達成する(「落日」では他のエージェントに邪魔されるが)。そしてその選択(殺し)の責任は、依頼した「合衆国」にある。彼そのものに、選択の余地はない。つまりこの操作システムは、操作キャラクター=ガルシアンをメタ的に表現する。すなわち、「自由に移動できず」、「運命を左右する選択はできない」存在である、ガルシアン。
また、この操作システムはプレイヤーにも影響を及ぼす。キャラクターに課された、「自由に移動できない」という制限は、アクションゲーム的外観から予想されるプレイ・フィールとのギャップを生み、プレイヤーを驚かせるとともに、プレイヤーとキャラクターの一体感・没入感を拘束的に高める。
ゲーミングが一本道であることと、キャラクターが決められた道を辿ることが、メタ的に重なっていく。プレイヤーは選択する意思を失い、ゲームシナリオに流されていく。
そこへ、マツケンは選択肢を突きつけてくる。
エミールの選択
殺し屋として戦ってきたエミール=プレイヤーに、マツケンは突然、生かすか殺すかを選ばせる。
どちらを選ぶべきか、当然プレイヤーは悩まされる。すると、選んだ決定には、明確に、プレイヤーの意思が反映される。
そこには、依頼された仕事をこなす殺し屋という立場を超越した、確かな自己がある。これまで、「合衆国」の依頼を受けてきた殺し屋だった男が、殺すことを否定し、その上で「合衆国」を敗北させることさえできてしまう。エミールは、もはや国家に管理された殺し屋ではないのだ。
つまり、マツケンを前にしたエミール=プレイヤーにとって、選択の結末に意味はないかもしれないが、選択することそのものには大きな意味があったのである。
一方、全てがプレイヤーの自由になるわけではなく、シナリオはある地点へとプレイヤーを運ぶ。つまり、エミールはエミールとして、既に道を決めていた。「獅子」シナリオを最後まで見てみよう。
マツケンと別れたエミールは、最後のヘヴンスマイル(ラストショット)を倒しにいく。ひとつには、それは笑う顔によるテロリズムを止めることを意味する。国家という秩序体制そのものへの暴力的敵であるテロリズムを駆逐することは、システムの運営主体=政府の考え・政治的な利害闘争を超越して、秩序を守ることにつながる。リンダ・バーミリオンの言うような、国を守る行為と接続される部分であり、同時にそこには、「自分の存在意義は何か」というアイデンティティへの問いかけに答える重みがある。
もうひとつ、ラストショットを倒すことは、スミス同盟の宿敵であるクン・ランとの間に(100年後にまた会うとしても)決着をつけるという行為でもある。それは自身を縛る因縁から自由になることを目指している。つまり、ふたつの意味合いのどちらにしても、ラストショットとの対決はアイデンティティの確立に関わっているといえる。
「笑顔」においてアイデンティティの危機に陥ったガルシアン。しかし「獅子」では、エミールとして復活し、過去の殺人鬼ハートランドとも異なる、因縁から解き放たれた新しい道を歩む姿が描かれる。そこには、人間の成長と自由の渇望という普遍的な物語が見えるはずである。
因縁との決着
もう一歩だ。まだ問題が残されている。ガルシアン・スミスがエミール・パークライナーとして復活するためには、しかしガルシアン・スミスという人格そのものが、言い方が悪いが、邪魔になってくるのである。
ここで、前章で述べた、あのホテル・ユニオン屋上での自害が克己的表現であるという可能性が立ち上がってくる。ガルシアン=エミールがアイデンティティを取り戻すためには、虚であるガルシアン・スミスという人格も、国民情報を書き換えられたエミール・パークライナーという虚の存在も、打ち破らなければならなかった。過去の因縁は、彼(ら)自身に、まず絡みついていたのである。ラストショットを倒して因縁から解き放たれるように、彼(ら)はそもそも自分自身を破壊しなければならなかった。その極限の発露が、あのエミールの自害にこめられたものではないか。
補助線〜受け継がれる“kill the past”
ガルシアンの視点から「killer7」の根底にある物語の普遍性を見る、という試みが、皆様にも伝わってきただろうか?
ガルシアン=エミールが、大きなシステムに被せられた嘘を破り、自分自身を取り戻す。その過程が「killer7」の終盤であり、アイデンティティを打ち立てるその方法とは、因縁を断ち切ること、“kill the past”だった……ということで、最後に補助線として、「シルバー事件」に軽く触れておこう。
といっても深堀りはしない。重要なのは、「シルバー事件」におけるキーワード“kill the past”である。このフレーズにこめられているのは、忌まわしい過去に決着をつけ、未来に向かうという意志である。その精神が、作品の枠を超え、GHMの(あるいは須田氏の)関わるゲームに血潮のごとく流れていると見ると、どうだろう。
最後の最後に画面外の話を持ち込んでしまったが、それを頭に置いてシナリオを見直すと、このテキストの読み筋も理解しやすくなるはずだ。
おわりに
さて、偉そうに喋ってきたが、ここまでのテキストはすべて真実ではない。
私に友人はいない。
商店街のドン突きに賑やかなモルト・バーはない。
あの街のバーは、線路をまたぐ車道の長い直線を頂いた、高架下の一軒だけだ。その薄暗い店内を、傲慢なバーテンダーが仕切っている。
昔の話だ。ブラントンという、私の思い出のバーボンを置いているかと私は彼に尋ねた。彼は当然という顔で、背にした棚からそれを手に取った。
「懐かしいですね」続けて彼は言った。「まだ頼む人がいるんだ。バブルの頃に流行ったけど」
いいバーテンダーというのは、空間的にも時間的にも抑制が効いているものだ。それでいうと彼は最悪だった。その店は老舗として街では一目置かれていたが、そう呼ばれるほどこの店が続いた理由が私には分からなかった。
その店も、もうない。そして、これもまた嘘でしかない。
ここに正解はない。
だいたい、「killer7」を初めてプレイして得られるものといえば、わけが分からない(けど面白かった、あるいは、からつまらなかった)くらいの正直な感想以外ありえるだろうか?
演出に圧倒されるばかりが本当で、それ以上に何かを受け取るには、粉洗剤の計量スプーンみたいな人類の感性では容量が足りない。
このテキストの原型となるメモを私が残したのは2021年だ。それは私が初めて「killer7」をプレイしてから、実に13年も後のことだ。
それ以前にも何かしらのアイディアは持っていたかもしれないが、それでも、初見でどうこうというわけではない。
だから、そもそも目論見が間違っている。
このテキストを読んだところで、諸兄の胸に浮かび上がるものなど、本当は何もない。
では、このテキストは、なんだったのか? 本当は、何を目的にして書かれたものだったのか?
御主人様。
それは明らかでございます。
実践です。
終わらぬ遊戯の実践ですわ。
お次は御主人様です。
ここから先は真剣勝負です。
現実と記憶が殴り合いですわ。
お好きな殺り方で沼凸ください。
クラゲの旅路を指差します。
我はハーマンの名の下に…。