トラペジウム、最後の輝き。
※映画、原作のネタバレ注意。
※妄想解釈です。
※キャラの呼び方が独特な筆者です。
ラストの台詞に関する解釈、妄想。
・工藤真司。
東ちゃんが序盤に出合うカメラ好きで制服好きな協力者。
作中で唯一東ちゃんの計画を打ち明けられていて、写真係として協力することになるカメラマン君。
このカメラマン君は物語ラストの個展(?)に星空の写真たちと共に文化祭での四人の写真を展示しています。
映画版だとその写真を東ちゃんが目にして、エンディングを迎えた(はず)。
しかし、原作小説だとカメラマン君のこの台詞で終わります。
「初めて見た時から、光っていました。」
・王道っぽい解釈。
あっさり考えるとEDの入り易さが考えられます。
東ちゃんがあの写真を見て、ハッと目を見開いて〜からのエンディングは流れとして完璧な気がします。あくまで個人的な感覚ですが。
あの台詞はアニメで言うCパート的な立ち位置の方がしっくり来ます。
写真を見て感激する→カメラマン君の台詞で感激する。
ハッとする演出が2段階構成だとなんか変に感じませんか?
あの写真を見ている東ちゃんの傍にカメラマン君が居れば上手い具合に台詞が機能しそうな感じはします。
場面転換の影響もあってカットしたんじゃないかと勝手に思ってます。
後は物語の主軸が東ちゃんであり、成長物語でもあるので。
星空を映した写真の個展の中に「トラペジウム」と付けられた当時の自分たちの写真がある。
星=光っている。
アイドルになる前からカメラマン君にとって東ちゃんは光っている存在だったと言うことを自分で気付く方針にしたとか?
カメラマン君がファーストコンタクト時に言っていた「制服が好き」もあれ以降そんな素振りを見せないので、東ちゃんがあの時から光っていて、それをはぐらかすのに言った可能性もあるのでは、と思った。
・的外れかもしれない妄想解釈。
カメラマン君を作中で唯一東ちゃんの計画を知っている人物と言いました。
文字媒体である原作小説だとその境遇で東ちゃんの動いたり喋ったり、努力している姿を見られるのは間違いなくカメラマン君だけです。
けれど、映画——映像媒体だとどうでしょう?
神の視点から見ている私たち視聴者は東ちゃんの計画を知っています。
外の人間である視聴者は勿論、映画内の状況に手出しは出来ません。くるみちゃんの辛さがどれだけ分かっていても助けるのは無理なんです。
カメラマン君もデビューが決まった後は協力者から手を引いています。
この時点で視聴者とカメラマン君の立場がほぼ同じになりました。
そして最初から東ちゃんの人間性や計画を知った上で映画を見届けます。
自分は凄く東ちゃんが好きです。
ちょくちょくSNSのおすすめに流れてくる感想を見てもトラペジウムを鑑賞した人の多くが東ちゃんの虜になっている気がします。
映画内で描かれているのは東ちゃんが最後に1人、アイドルになるまで。
アイドルになってからの描写は全く分かりません。
視聴者が見てきたのはそれまでの東ちゃん。
初めて見た時から、光っていました。
カメラマン君が言わずとも、感想としてこの台詞が出てくるから要らなかったのではないでしょうか?
この台詞まんまではなくても東ちゃんへの好意的な反響がそれを体現してると思ってます。
自分は勝手にそう思いました!
最後に。
原作を読んで思ったのは、映画のクオリティが死ぬほど高いこと。
原作を忠実になぞりながらも改変や追加シーンを入れて、カットするところはカットする。
先に原作を読んでいたら拍手喝采どころの騒ぎじゃないよこの映画!
ラストの台詞カットもあってか、映画見てから原作の順番でよかったなって思う。多分、俺が東ちゃんを好きなのはそう言うこと。ずっと輝いてたんだよ東ちゃんは!
こんな素敵な映画ないよぉ!