言葉
何を言うかが知性で何を言わないかが品性でどうやって言うかが人間性
って言葉をどこかで見た。
元々は
「何を言うかが知性で、何を言わないかが品性」
ってスピードワゴンの小沢さんが言った言葉の転用らしい。
そう考えると私品性ないのかもしれないなって思ってしまった。めちゃくちゃ喋ってるわ。
でも、ネットを徘徊していたらその先の言葉があって(誰かが作ったのかもしれない)。
なんだか必要なものな気がした。そっと私の座右の銘にしたぐらいに刺さった。
この言葉を信じるとするなら人間性があるって難しいなって思ってしまった。
優しい
私が今まで会ってきた人は優しい人が多かった。
でもその優しさって誰に向けた優しさなんだろう。
『優しく教える』『優しい言葉をかける』『優しく伝える』
立場によると思うけれど、私自身も周りにできる限り優しくしたつもりではあるし、たくさんの人に優しくしてもらった。
誰かに優しくすることって結局自分に「感謝」であったり、「優しい」というイメージが返ってくることもあるし、別に優しくすることもされることも損ではないとも思っている。それを意識してやっているわけではないけれど。
その言葉が事実で、本心から出た言葉あったなら何も問題はないのかもしれない。
最近パワハラとかセクハラという言葉と共に余計に「優しくする」という風潮が広まった気がする。
出来ていなくても「前よりできている」
すごくなくても「すごい」
都合の悪い現実は覆い隠して、優しい言葉で蓋をすることが増えたような気がする。どこと比べるかで良く聞こえるように言えてしまう。
いや、私がそんなこと知らない子供だった時から、社会ってずっとそんなものだったのかもしれないけど。
そうは言っても、言葉選びが必要な時は絶対にある。それはわかる。
客先に都合の悪い事実をわざわざ見せる会社は信用できないと思うし、営業でいくら本当でもマイナスなことばかりを言ってたら何も売れない。
でも身内とか、仲の良い友達、教えるべき後輩にも優しくいる人が多くなった気がする。それ自体は悪いことではないはずだけど。
なんでスッキリしないんだろう。
本当のこと
女の子同士だとよくあるのだが相手に対して「かわいい」「すごい」という言葉を使う。
自分を下げて相手を褒めるのが当たり前のコミュニケーションとして使われている気もする。
「私デブだからさ〜(笑)」
「私マジで可愛くない。可愛くて羨ましいー」
みたいな会話がよくある。
めっちゃ似合わない格好でも髪型でも、似合うって言われてることが実はあると思う。それを言われることで本当に似合っていない服を着続けることになる。
本人は「似合っている」と思っているから。
そして『似合わないものを似合うと言われていた』と気づいた時に本当に「似合っている」時にその言葉が信じられなくならないだろうか。
その服を長い期間着てしまったとして、デートに着て行ってしまったとして、その言葉を『優しさ』として受け入れられるのだろうか。
でも、そのコミュニケーションを無くしてしまったら、人間関係がうまくいかないこともあるらしい。
相手に対して「自分のためを思って話すべきだよね」ってどこかで思っているのだろうか。
それとも、本当のことを言われるほど仲良くはないだけなのだろうか。
私の度量が狭いのだろうか。
『本当のことを言ってくれるのが友達』ってどこかで聞く気がするけれど、大人になればなるほど本当のことを聞かなくなった気がする。
それは多分私も同じで、本当のこととか、ありのままの真実を全て伝えるだとか、そういう機会は減ったのだと思う。
それは、相手の立場とか、気持ちとか、場の雰囲気とか、今後のことだとか、考えられるようになったからなのかもしれない。
大人になったってことなのだろう。
子供の頃は、大人なら色々わかるから早く大人になりたい!って思ってた気がするのに、大人になったらわかってても言わなくなったなんてちょっと皮肉な気もする。
ただ、少しだけ、ほんのたまにだけど。
本当のことを全てぶちまけてしまいたくなったりする。
欲しいもの
私は優しくされてモヤモヤすることがある。
もちろん普段は優しさを感じたら嬉しいし、私自身も生きてきてたくさんの優しさを誰かから貰ったと思う。
ただ、聞いた時ぐらいは本当のことを言って欲しい時が多い気がする。
そう思うのは、私が自分のことを振り返るのが苦手だからなのかもしれない。
はたまた、誰かから見た私とか評価というものに依存しているのかもしれない。
でも、なんとなく。
本当になんとなくだけど。
今の私が私である理由が今までの誰かからの本当の言葉な気がしている。
現実を突きつけられた時にちゃんと前に進めている気がした。
誰かにいさめられた時に「やば」って思った。変えようって思った。
それは、私自身がどこかで責任を誰かに押し付けたいだけなのかもしれない。
私は私に甘いから、私の見え方が100%わかるなんて無理だ。
だから心のどこかで常に何かを変えたくて、そのきっかけをずっと欲しているだけなのかもしれない。
欲しいものを他人に押し付けるだなんて、私のワガママなのだと思う。
優しさって人間関係には必須だし、間違ってないのにそれを崩して欲しいなんて難しすぎる要望だとも思う。
ただ、私が発する言葉には少なくともこの思考が滲み出ていると思うし、他の誰かが発する言葉にはその人の思考が滲み出ているのかもしれない。
実際私がどの程度できているのかは知らないし、どの程度受け取れているかは知らないけれど。
理解
人から貰った言葉を、本当に理解するって多分難しいんだと思う。
そもそもそこまで考えてない会話もたくさんあるし、本人すらも意識してない意図って案外たくさんあると思うし。
言葉選びには、その人の考え方とか信じてるものとか詰まってて、無意識に滲み出てるものなのかもしれないけれど
私はその意図をどこまで理解できているのだろうか。
同時に私の伝え方にどこまで反映できていてわどこまで受け取ってもらえるのだろうか。
そもそもどうやって伝えるかに人間性が出るってこういうことなんだろうか。
今日からもう少しだけ、誰かの意図を理解できる聞き方も、私の意図を伝える伝え方も出来る気がする。