誰か私を殺してくれないだろうか


これはただ、前に書いたものを公開しただけです。でもまた久々にこれ書きたいなぁ…

最初に言っておきますが、別に自殺願望があるわけではないです。

私は感情に周期があります。
いや、話を聞いている限りみんな結構あるのかなぁと思いますが。

色々頑張ろう!これとアレやろう!と思う時もあって
何もやる気が起きなくて、でもやっていない自分にモヤモヤするし、悲しくなるしって時もあります。

焦燥感

でもどっちの時でも常に持っているものはきっと不安と焦燥感です。

多分この世には、元々やったらできる人は間違えなく一定数いて、経験がなくてもなんとなく考えたらできるだとか、様々な経験、努力でできる人はきっといっぱいいます。

聞いたら頭でなんとなく動きが組み立てられて、こういう方法もある、って思いつくとかね。

経験の賜物のパターンも多いと思いますし、元々できる人もいるかと思います。

でも私は少なくとも紛れもなく「一般人」「普通の人」です。
むしろ、普通の人以下だと思っています。そして、大した経験もありません。

だからこそ、「努力をしないと」「やらないと」「とりあえず行動しないと」って言う焦燥感、不安みたいなものは常に持っています。

そして、たとえ自分なりに努力できたとしても「今日はできた。えらい!」と思う自分の中にも、常に薄い膜のような「不安感」「焦り」があります。

ただこの努力って、与えられたもの以外の場合、方法も思いつかなくてはいけない。その上続けないといけない。
もちろん、簡単じゃないし、苦手なこともしないといけない。

「将来楽するために」努力は必要だと思います。楽しむだけで成功なんてできない。きっと成功しても辛いことはある。
そんなことはわかっています。

「成功」をつかむためには、どこかで苦湯を飲まなくてはいけないのでしょう。

それを続けるためにも努力ややりがい、目標が必要なのでしょう。辛くても続けられるだけの理由が。

その努力という名の苦湯を自分から飲みに行ったのかもしれませんし、人生のとあるタイミングで、環境で、偶然その時が降りてきたのかもしれません。

でも楽をしたい、働きたくないと思うことってそんなに悪いことなのでしょうか。

そんな辛いことをやる意味あるのだろうか。必要もないのに自分から苦しい道に進む必要はあるのか。

仮にその道があるとしてどのような方法があるのか。その道を見つける方法はなんなのか。

「人間本気になったらなんでもできる」
と言いますが、本気の出し方がわからない人間はどうしたら良いのか。

そこに答えはありません。きっと答えは結果でしか返ってこなくて、成功したら正解なんでしょう。

本気を出すために必要なこと

おそらく、人間が本気を出すために必要なことって

「人生の目的」とか「自分が何を捨ててもありたい姿/これをやりたいっていう想い」なのでしょう。

でも私にはそんなものは今のところ思い当たりません。

なんのために生きてるの?
って思うかもしれませんが、私はきっと今死んでも後悔がないんだろうなと思います。

本当に死にそうになったことはないので、その時に実際どう思うかはわかりません。死にたいというわけではないのです。

私は楽しい瞬間もあります。趣味もあります。好きな人たちもたくさんいます。

でもそれは生きる目的というほどのものでもなくて、ただ私が生きている理由は「自分の好きな人たちが悲しむから」です。

死なない理由を他人のせいにするなんて、自分がいなくなったら悲しむだなんて、傲慢だと思いますか?私もそう思います。

でも、死ぬことって家族に迷惑かかるし、悲しむだろうし、精神病まれて、それで何かが手につかなくなっても嫌だな。
少なくとも家族ぐらいは幸せに生きてほしい。

今まで自分に優しくしてくれた、一緒にいてくれた友人たちを悲しませたくない。
自分が話を聞いていればなんて背負わせたくない。

と思うのは、私の好きな人たちのことを私がよく知ってるからです。

「命を絶つこと」の責任を、自分で取りたくないだけかもしれません。
自分も追いたくないものを、好きな人にも背負わせたくないのかもしれません。

だから、この世に「私に関わる記憶とか存在とか全て消せるボタン」があれば、押すだろうななんてたまに空想してしまいます。

身寄りのない独居老人になれたら、私は死を選ぶのでしょうか。

生きるためには

そんな気持ちでも、この世界で生きるためには食べ物も家も服も「お金」がないと生きていけないわけで。

「お金」は仕事をしないと手に入りません。

生活保護でいいじゃんって思いました?

生活保護って、 
身内がいると手に入らないことが多い。親に迷惑かけたくない。
貯金や買うものなどに様々な制約がある。
周りの目が気になる。
今後「普通」に生きていくのに足枷になる。

私が生活保護を避けている理由はただこれだけです。

ぶっちゃけてしまえば生活保護に何も制約がなく、誰にもバレなければもらっていたと思います。

あとは、今ですら「まぁ、でもわざわざ苦労してまで生きなくてもいいか」と思っている自分が楽しいことを制約されたら余計に加速してしまいそうで少し怖いというのもあります。

そして、私は働くことも「努力」の一つだと思っています。
いや、正確には私にとっては努力です。

働くことはお金もそうですが、「経験」という社会的にも、能力的にも、財産となるものは手に入ります。場所によっては「友達」「仲間」も手に入るかもしれません。

でも、私には頑張る理由にならないのです。それぐらいに働くことって私にとって大変だから。別に仕事をしていて楽しい瞬間もたくさんあります。

それでも、大して価値のない「自分が生きる」ためのお金も必要ですし「普通に働いてる人である」ことが必要だから働いているだけ。

働く際のお金って、経験や能力によって左右されます。お金って1番わかりやすい報酬ですし仕方がないことだとは思います。

じゃあ、ただ生きるためだけに、誰かを悲しませないだけのために辛い環境に居続ける必要はあるのかと考えてしまうこともあります。働くって楽しい瞬間もあるけどしんどい瞬間もたくさんあるから。

きっとそこに自分の人生における目標が乗っかってくれば「何かのために、自分のために頑張る!」ってなるのでしょうか。

社会人って、私のような人がたくさんいる気がする

ただ「生きるため」にお金を稼ぐ。
「お金を稼ぐ」ために働く。

生きる目的なんてなくて、ただ努力をしている人もいると思うのです。
それが当たり前だから。

偉いなぁ。私はそうはなれない。
いや、正確にはなれなくなってしまった。
前までは働くってそういうことだと思ってた。みんなそうだと思ってたから、まだ「嫌だけど、頑張れない私がおかしいから頑張らないと」って思えたのに。

ここ1年ぐらいで、自分の人生の目標を持った色々な人を見てしまったからでしょうか。
何かするために頑張っている人をたくさん見たからでしょうか。
その人たちが眩しくて、自分の何も無さを余計に暗い影のように感じるのかもしれません。

そのキラキラさに憧れる気持ちは、近づきたいという気持ちは、ただの憧れなのだろうな…と理解はしています。

でも、私はあんなにキラキラできないな、きっと今後もただ楽しいという感情だけで人生を過ごすことはできないのだろうということにもう気付いてはいるのです。
そしてキラキラしている人たちが努力していることも知ってはいるのです。

誰かに殺されたのであれば、死んだことで好きな人たちが悲しむのは私のせいじゃないから。
もし、そのせいで私と仲良い人が苦しんでも私のせいではないから仕方ないって自分に言い訳できるから。

だから、お願いだから、誰か私を殺してくれないでしょうか。
私の死の責任を誰かとってくれないでしょうか。

そして生きるためだけに努力が必要なこの世界から逃してくれないだろうか。

なんてちょっとした本音と嘘の間のお話。

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