映画「コーダ あいのうた」感想
アマゾンプライムで観た。
後味すっきりさわやかレモンだ。
直七のど飴を食べてるみたいな気分。
魚の生臭さもそれにちょっと混じる。
なんかそういう漠然とした印象が後を引く。
アメリカかどっかの港町で、漁業を営む一家の話。
父、母、長男、主人公の少女で構成される4人家族。
少女以外耳が聞こえない。
なので少女は聾者と聴者をつなぐ通訳としてずっと機能してきた。
高校に入って彼女の歌の才能が明らかになり、合唱部の顧問からバークレー音楽大学への進学を勧められるが、耳の聞こえない家族は彼女の才能を理解することができず…みたいな話だ。
とりあえず家族の結束がエグすぎる。
長男が食事中にマッチングアプリを開いているのをみんなで見て「この子はダメ」とか品評しあう。
でも少女が音楽を聴くのはダメなのだ。
みんなで楽しめないから。
でも食事の前に父親が盛大に屁をこくのは許されるのだ。
においは家族全員が楽しめるから。
その場にいる全員で共有できるものだけ楽しみましょうね、というのはある種普通のことなのかもしれないが、この家族は聴者というマジョリティの世界から排除されているから、被差別者のアイデンティティによって結束がより強くなっているように見えた。
それゆえに音のある世界をやや過剰に遠ざけている。
音楽というのは家族という美しい秩序を乱す不協和音なのだろう。
でも父親はラップは好きなようで、車中でラップを大音量で流す。
振動がケツにビンビンくるのだそうだ。
この「聞こえなくても振動は感じる」ということが、閉鎖的なこの家族が外の世界に向かって開いていくための突破口になっており、ラストへの伏線にもなっている。
★股部白癬の恐怖
彼らは漁師なので、濡れた服を着ている時間が長く、そのせいか父親が股部白癬(いんきんたむし)になる。性交によって妻にも感染する。
思春期の少女はそうしたあけすけな話を医者に通訳させられることに抵抗があるようだった。
ずっと小さいころからこういう役回りをやらされてきて、うんざりするよねと思った。
家族のほうからしたら、「何を恥ずかしがることがあるの、私たちは家族じゃない」という感じなのかもしれないが、個人的にこういうズカズカ人の領域に入り込んでくるのは苦手なので、娘よく発狂しないなと尊敬した。
あと、夫婦は医者から「二週間セックスは禁止」と言われて「無理だ」と答えていた。
セックスレス大国日本の民からすると「えぇ…」という感じだ。
そんなに夫婦間でセックスするのが好きなのか。
股部白癬は僕もなったことがあるが、二週間やそこらで治る病気じゃないと思う。
セックスだけじゃなくて、タオルの共用などでも感染する。
この父親は髭とかもすごい伸びてるし、それほど清潔に意識を割いているとは思えない。
娘にうつすなよ!と心の中で怒鳴りながら観ていた。
★マジョリティの中のマイノリティの中のマイノリティ
娘は、聾者が多数を占めるこの家族の中ではマイノリティである。
だから彼女は通訳として体よく使われてしまうし、彼女の、聾者には理解できない才能も軽視されてしまう。彼女が自分の才能を活かしたいと思っても反対されてしまう。
こうした家族の、少女に対する依存ぶり、こき使いぶりにイライラする。
そして彼女に対する家族の無理解ぶりは、そのまま我々聴者の聾者に対する無理解ぶりを映す鏡となっている。
外の世界ではマジョリティとマイノリティの関係が逆転する。
関係を逆転させて相似形にしたのがこの家族なのだ。
映画、音楽、電話によるコミュニケーションが前提の仕事、駅のアナウンス、防災行政無線。
娯楽から生活の糧、命にかかわることまで、基本的には聴者を中心にデザインされている。
もちろんいろいろな配慮がなされる。
でも十分じゃない。
それにそれはどこまでいっても配慮で、聾者「にも」わかるように、とか聾者「でも」楽しめるように、とかいったような副次的なニュアンスがつねにつきまとう。
我々は中心ではない、という意識が聾者から消えることはないだろう。
それはいいとか悪いとかいうことを離れて、個人の人格形成に影響を与えるだろう。
聴者は音楽を聴いて「感動した」、とか簡単に言ってしまう。
自分の感動は神聖なものだと思っている。
でも実際はぜんぜん神聖じゃない。
特定の音の配列が、特定のパターンで鼓膜を振動させると、脳の中の化学物質の組成が変わり、いい気分になるのだ。
そのような化学反応に感動という名前を付けているだけだ。
少女が参加する合唱部のコンサートで、恋しちゃってる男子とデュエットを歌う際、音を消す演出がなされる。
このシーンで聾者にとってのコンサートというのがどんなものなのか疑似体験できる(もちろん実際の体験とは違うだろうが)。
音が聞こえないとやっぱりつまらない。
歌い手の表情や聴衆のリアクションが生き生きと目に入ってくる分余計に、何か重要な部分をシャットアウトされている、という感覚が強く経験される。
その場にいても、自分は排除されているという意識が強く感じられる。
こういう孤独の中で会場にいたら、ほかの人々が熱っぽく「感動」について語るのを、白けた目で見ざるを得ないんじゃないかという気がした。
そして先ほど書いたように、感動の神秘性をはぎ取ってそれを化学反応として説明したくなる。
それはある意味で真実だし、人の、自分が手にできないものの価値を低く見積もって自己の心の安定を図りたいという欲求に沿ったものでもある。
それでも家族は周囲の人々の反応や、顧問の教師の熱心さなどを感じ取り、さらには父親が娘ののどにじかに触れて歌の振動を感じ取ることを通じて、娘の夢を後押しする決断をする(ラップの伏線はここに効いてくる)。
大学は寮制らしく、娘が家を出ていく際に、家族との別れを惜しんで車から降りて来てしまうのだが、その時に父親が「行け」と声をかけるシーンは感動的だった。
この家族は普段手話を使って会話しており、父親が肉声を発するのはこのシーンが唯一だと思う。
娘が外の世界に出ていくにあたって、外の世界の言葉で後押しをしてやるというのは、娘に対する尊重の表現としてとても心を震わせるものになっている。
★家業はどうするのか問題
そんな感動的な感じで娘は巣立っていったが、海に出ている間の無線通信や、市場との値段交渉を娘に依存していたこの家族が、今後どうやって家業を切り盛りしていくのか、具体的な解決の道筋は示されていなかったと思う。違うかな?映ってたかな?
まぁ一応、父親が漁業関係者の前で演説して漁師仲間の尊敬を集めたり、消費者に直接鮮魚を届ける試みを始めたり、長男が少女の親友とセックスしたりと、いろいろ希望を感じさせる要素はる。
長男の枕営業がうまくいけば、少女の親友を新しい通訳として引っ張り込むこともできるかもしれない。
というか俺らが手話や筆談をちゃんと行えばいいんだ、と思った。筆談はスピードが遅いけど、価格交渉の時には文字起こしアプリを使うとか、工夫のしようはあると思う。
なんか漁船に連邦政府だかなんだかから派遣されてきた監視員を乗せるシーンがあったが、そんなことをする金があったらバリアフリー周りに少し投資してやれよという気もした。
そんなにバカみたいな金額にはならないと思う。
文字起こしアプリなんて無料だし、専用の端末代とランニングの通信料を払っても初年度数十万円くらいで済むんじゃないかな?
ダメかね。
★差別は終わらない問題
後味スッキリアオハルエンドに思える本作だが、ちょっと考えれば全然そんなことはない。
少女は生まれつき歌が上手いのでバークレーに合格するが、少女が恋してる少年は落ちちゃうのよね。
そんで最後のほうで少年は冗談めかして「君はどうせキザな帽子のチェロ弾きと駆け落ちしちゃうんだろ」と言う。
たぶんそうなるだろう。
もちろん相手はチェロ弾きじゃなくて、キース・へリングのバッジを胸につけたロケンローラーかもしれないし、「セッション」に出てきたみたいな鬼教師かもしれない。
でもそういうことが起きる確率はけっこうある。
持つ者と持たざる者の間の差別の予兆がここにもある。
少女は持つ者で、少年は持たざる者だったのだ。
少女はより広い世界で才能豊かな人々に会い、そうした刺激的な世界との対比で、あれほど恋焦がれた少年や、大切だった親友、家族、そして故郷の町そのものを退屈に感じるようになるかもしれない。
そんで夏休みに帰ってきた時に少年とケンカして、「あなたなんか合格すらできなかったくせに!」とか言っちゃうんですよ。
でも残酷なのは、そうやって自分が差別意識を抱えていることや、二度と取り戻せない喪失を抱えていることに気づいたら、彼女の歌はもっと深みをますかもしれないということだ。
彼女の少女時代、そこに含まれたすべての価値を犠牲に、芸術は輝くのだ。
もちろん逆もある。外の世界のふるまいを身に着け、自分たちの知らない価値のにおいを発散する彼女に対して、故郷の人々は嫉妬心から「気取っている」「大学に入って変わった」とか適当な理屈をつけて攻撃を開始するかもしれない。これもまた差別だ。
こういう差別は世界のいたるところにあるし、あらゆる人の人生のいたるところで起きる。誰もが加害者であり、被害者でもある。
差別というのは人間世界ではあまりにもありふれすぎていて、また複雑に絡み合いすぎていて、どこから手をつけていいかわからない。
だから差別というのはなくならないのかもしれない。
そういうネチネチした差別のありようを、さわやかフレーバーでくるんで見せているという点で、けっこう皮肉な作品なのかもしれないな、という気もした。
★聞こえるとはどういうことか
耳が聞こえると思っている人でも、聞きたくない音は聞いていない。
勉強に集中していると周囲の雑音が聞こえないとか、考えごとをしていて授業を聞いていないとか、そういうことはありふれたこととしてある。
耳が痛い真実は聞こえない、聞こえても理解しようとしない、受け入れようとしない、ということもある。
その音は鼓膜を振動させているが、聞いてはいない。
人がみんな、自分が聞きたい範囲の世界で生きているとすれば、聴覚の有無は人を区別する基準としてはあまり役に立たないのかもしれない。
聴覚のない人は、音がゼロの世界を余すところなく聞いているのだと考えれば、世界のすべてを聞いているともいえるかもしれない。
感覚は世界を縮減する、と誰かが言った。
聞こえることはある意味で障壁を作り出す。
これはジャズ、あれはロック、これは俳句、それは浪曲とか、ジャンルやカテゴリを作り出す。
そしてこの歌は英語だから自分には関係ないとか、オペラは退屈だとか、ブラックミュージックは質が低いとか、それらと自分との関係性においても、障壁を作り出す。
もしも一切音が聞こえなければ、それはそれで音と自分との間に境界が生まれるかもしれない。
でも聞こえる人のように、細分化され、複雑化された障壁の迷宮に惑わされることはないかもしれない。
ジャズファンとロックファンの抗争に巻き込まれることもないかもしれない。
もちろん、ことはそんなに単純ではないとは思う。
この映画の父親のように、ほかの音楽はわからないが、ラップの振動は感覚できる、ということはある。「聞こえない」という状態を単純化して一意に定めてしまうことは乱暴だし、机上の空論である。
しかし「聞こえる」ということは「聞こえない」ということかもしれず、「聞こえない」ということは「聞こえる」ということかもしれない、と考えてみることにはそれなりの意味があるように感じる。
この映画はそういうことを考えるきっかけになると思う。