映画「アイム・ユア・マン」感想
アマゾンプライムで観た。
たぶん近未来くらいの話で、中年にさしかかってるくらいの女性(アルマ)が、人間そっくりに作られたアンドロイドの男性(トム)と、トムの評価実験という体で3週間一緒に過ごす、という話。
★まず気になったところ
は、このアンドロイドを作ってる会社のドアが、手動ドア(たぶんカギは自動)であるということだ。
これだけ精巧なアンドロイドを作り、アンドロイドとの初デート会場を人間と見分けがつかない高品質のホログラムで埋め尽くす技術力を持った企業のドアが、手動ドアだというところに若干の違和感を感じた。
車いすの人はどうするのだろう。
車いすの人とかもう存在しないのかな?
そういうテクノロジーの発達レベルが均一でないところが、おかしいのか、逆にリアルなのか、どっちだろうなぁとずっと考えてしまった。
あとドイツの扉って内開きなんだね(これはドイツの映画だ)。
アメリカのドアって外開きじゃない?国土が狭いと内開きになるんでしょうか。
★気の毒なアルマ
この映画の主人公・アルマは、辻村深月「傲慢と善良」の架くん同様、気の毒なほどバカに設定されている。
常に理性的で、正論を繰り出し続けるアンドロイドとの対比を出すためであろうが、人類の愚かさを一身に背負わされたかようなバカ女っぷりである。
自己愛が強いが、他人を愛することができない。
トムが自分の気に入らない言動をするとすぐ激昂して追い出してしまう。
しかも追い出したという加害意識を負いたくないので、「私のために去って」などとほざいてしまう。
最初は自分もトムのことをモノ扱いしていたくせに、自分が属する大学の学部長が、トムの髪などに無断で触ろうとすると、「攻撃的な行為ですよ」などと言って注意する(自分はトムの顔にワインをぶっかけたりしていたのだが、そのことは忘れてしまったのだろうか)。
これは、トムと過ごすうちに心情が変化して、自分と対等のパートナーとして認めるようになったのだ、と美談として安直に受け入れそうになるが、その割には上述のような「私のために去って」などというご都合主義のオーダーを出してしまうのである。
アルマは人間に対してもこんな風に言うのだろうか。たぶん言わない。人間には「意思」があり(ないかもしれない)、追い出されて出ていくことにするのか、自分の意思で去ることにするのか、勝手に選べるから、強制しても無駄なのだ。
だからアルマはやはりロボットのロボット性を利用しており、完全に対等な存在とはみなしていないと考えることができる。と思う。
アルマが学部長を諫めるのは、人権意識からではなく、ただ単に自分の所有物であるトムに他人が勝手に触れるのが許せないだけだと思う。
ただこれについては、アルマ自身のセリフだったか忘れたが、ロボットが「人権を持ちうるのか、部分的人権を持ちうるのか」みたいに考えるシーンがあり、アルマが「ロボットは部分的人権を持つにすぎない」と考えているとすれば、例えば「トムは勝手に身体に触られない権利を持つが、ご都合主義の文脈で追い出されない権利は持たない」と考えている、と解釈することもできる。
そう考えると、アルマは「部分的人権」を持つトムに対して、一貫した接し方をしているといえるのかもしれない。
ワインをぶっかけられない権利は持たないが、勝手に髪に触れられない権利は持つ。
それ以外にも、考古学だか歴史学だか、古代の文字や詩などを研究しているアルマは、自身と同じテーマで研究をしていた別の研究者に論文発表において先を越され、激昂し、悔し泣きするシーンがある。また激昂か。
この時も「この研究は人類の宝だ。それは利己的な涙ですよ」とトムに指摘され、逆上してトムに攻撃する。
その割に部下というか、一緒に研究している仲間には「説明するわ」といってやけに穏やかな対応をしているので、こういうところでもロボットに対するアルマの差別意識は露わになっている。
あるいは、普通の人間はこう考えるのだろうか。
アルマはすでにトムを自分の恋人として認めており、トムに対して自分の感情をぶつけているからこそ、それ以外の人間には比較的親切に、冷静に接することができるのだ。これこそがパートナーシップなのだ。
もしそうであるなら、僕こそがパートナーシップというものを理解できない、非人間的人間であって、トム以上にアンドロイド的であって、この人間社会から放逐されるべきなのであろうか。
まぁそれはいい。
アルマは、常に葛藤しながらトムに接しており、人間とロボットの関係がどうあるべきなのかは、本作全編を通して、我々が考えるべきことであるから、アルマの愚かさは我々の愚かさの投影であって、この映画はバカ女の非人道ぶりをあげつらうためにあるのではない。たぶん。
★アンドロイドは他人の失敗を笑うか?
印象的なシーンとして、トムがアルマの職場に同行させてもらえず、近くのカフェで彼女の帰りを待つシーンがある。この時、居合わせたカップルが何かの映画だか動画を見て笑っている。ほかの客から「他人が失敗するのがおかしくて笑ってるのよ」と説明されても、トムは何がおもしろいのか理解できない。
この辺はハインラインの「異星の客」でも描かれていた、笑いの攻撃性に関する問いかけだと思う。火星人に育てられた主人公のマイクは、地球人の笑いが理解できなかったが、動物園でサルが弱い個体をいじめているところを見て、初めて「笑いの本質は攻撃だ」と理解し、以後笑えるようになる。
笑いについては、特にこのあと映画の中で深く追究されているようには見えなかったが、カフェのシーンの後で挿入された人々の失敗集ホームビデオみたいなやつは、なんとなくトム視点なんじゃないかという気がした。トムが脳内のアーカイブを参照して笑いを理解できるようにアルゴリズムを修正しようとしたのかもしれない。それとも観客への問いかけだったのかもしれない。僕はこの失敗集を見て笑ってしまった。そのことで僕もやっぱり人間なんだ、という安心感を得ると同時に、他人の失敗を笑うような邪悪な心を持っているからこそ、僕らは楽園を追放されたのだ、という気持ちにもなった。
★人間たちは本当に楽園の夢を見るか?
終盤で、アルマが「人間は本当に、ボタン一つで需要を満たしたいのだろうか」と内省する場面がある。
この問いは、もっと抽象化すれば、「人間は本当に楽園に戻りたいのだろうか?」という問いであるように思う。
キリスト教的文脈では、人間は本来神の作った楽園にいたわけで、知恵の実をつまみ食いしてお外に放り出されたのだ。
しかし人間はその知恵を使って科学技術を発達させ、様々な欲望をより簡単に満たせるようにしてきた。
そして「人生の伴侶」さえも、ボタン一つで手に入れられる時代に突入しようとしている。
楽園の外に楽園を自力でこしらえようとしている。
これを「人類の逆転劇アチーーーー!」と見て、胸アツ映画を1本作ることもできる気がする。
しかしこの映画のように、「(楽園の外の生活に慣れ切った僕たちが)楽園の生活に耐えられるのだろうか」という問いとして考えることもできる。
僕たちは、「ONE PIECE」に熱狂する。
冒険そのものがひとつなぎの大秘宝、という思想を支持する存在である。
ありったけの夢をかき集め、探しもの探しにいくタイプの存在である。
本当にほしいのは結果ではなく、充実したプロセスなのではないだろうか?という気がする。
しかし一方で我々は、あんな夢もこんな夢もふしぎなポッケでかなえてほしいと願う存在でもある。
楽して満足いく結果を手に入れたいのだ。
人間はこの二つの間で揺れている。
もしくは、欲深い我々は、充実したプロセスと満足いく結果の二つともほしいと思っている。
楽園には、両方ともあるのだろうか?
全能の神が作る楽園だから、出会って0秒で即合体することもできるし、「豊穣の海」くらいなんやかんやあってからよくわからん階段で「君の、名前は…?」で結ばれるみたいなこともできるのかもしれない。
そうであるなら、「じゃ楽園でお願いします」で終わるような気もする。
この映画も必要ないような気がする。
僕が「本物の苦しみ」にこだわりがないのは、すでに僕がテクノロジーで腑抜けにされた奴隷だからかもしれないが。
でも楽園にはたぶん苦しみがないんじゃないかと思う。
だから「苦難に満ちた冒険」や、「摩擦や葛藤の末にパートナーと理解しあう」みたいなことはたぶんお取り扱いがないんじゃないかと思う。
だからこそたぶん、トムがやってきたのだ。
神の使いとして。
映画を観ているうちに、「あーこいつ天使なんだな」という気がだんだんしてきた。
昔大学の授業で、「ヨーロッパ映画の天使は美少女とかじゃなくて、成人男性の姿で描かれることが多い」みたいな話を聞いた気がする(「ベルリン・天使の詩」とか)。
そのことが頭をよぎって、ヨーロッパ映画におけるある種伝統的な天使の描かれ方を、アンドロイドに置き換えたのがトムで、それによって、現代的な問いかけをしようとしたのが、この映画の一つの意味かもしれない、と思った。
さらに話が逸れるが、アルマが心を閉ざして恋に消極的になっている理由の一つが、過去の流産にあるというのも、楽園追放を意識していると思う。出産の苦しみは楽園追放と同時に神が女性に負わせた苦しみだからだ。
不完全な人間同士でつきあう世界
完璧な伴侶であるアンドロイドとつきあう世界
この映画の中では、結局アルマはアンドロイドが人間の伴侶になることを否定する。自分の欲望を100%かなえてくれるアンドロイドとつきあっていたら、「普通の人間に耐えられなくなる」と考える。
たしかにそうかもしれない。
でももしかしたら、それぞれにパートナーアンドロイドがついて、人間と人間の間の利害が衝突したときは、それぞれのアンドロイド同士が理性的に交渉する、という感じにすれば、人間が人間に耐えられなくなったとしても、世界はなんとか回っていくかもしれない。
僕はアルマが下した決断を、この映画全体のメッセージとして受け取らないほうがよいのではないかという気がした。
理由の一つは、終盤に出てくる62歳のハゲブスおじさんである。この愛おしきハゲブスは、アルマと同じ実験の参加者で、アンドロイドとの時間を過ごしている。
トムとうまくいかないアルマと違い、ハゲブスは完璧な伴侶との時間に非常に満足している。彼は「人間からは見た目で差別されてきたし、みんな私から離れていった」という(間違ってたらすみません)。
彼のように非モテの階級に押し込められ、ありとあらゆる差別に苦しんできた人や、性暴力の被害者など、性愛において非常に深刻な傷を負った人たちには、絶対に自分を傷つけないアンドロイドと付き合うことが適当な場合もあるのではないかと思われた。
というかそのこともこの映画のメッセージの中に含まれていて、どうするかは我々が考えるべきこととして投げられているのではないかと思った。
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