エッセー 街はあみだくじのよう 一視覚障碍者のつぶやき

 中途で視力を失って、初めて歩行訓練を受けたとき、白杖は長い自分の人差し指だと思えばいいと、訓練士の先生に教わった。それがずっと頭に残っていて、30年経った今でも、外を歩くときの心構えの一つのようになっている。
 歩いている途中でふと、自分の人差し指が地面まで伸びたけったいな図が頭に浮かんで、思わずにやついている自分の顔が、そこに上書きされて、シュールさが倍増。いったん足を止めて、頭をリセットしていると、「大丈夫ですか? 一緒に行きましょうか?」と、心配そうに声をかけてくれる人がいて、なんかばつが悪く、「すみません」と恐縮した。
 街にはいろんな種類の直線がある。自力歩行のときは、それにずいぶん助けられている。あみだくじの線をたどっているみたいだなと思うこともある。点字ブロック、側溝、階段、電柱。その中にある直線は、いろんなことを語りかけてくる。例えば、側溝のへりの直線は、「これを超えると落ちますよ」、柱の垂直線は、「これを避けないと、ぶつかりますよ」、上り会談の横線は、「これをまたがないと、つまずきますよ」、電車の扉の枠は、「この角の内側に、体を入れてください」と言っている。おかげで、目的地には、まあ、いろいろあっても、なんとか無事にたどりついてきた。曲がらずに直進したり、同じところをぐるぐる回ることもあるが、今のところ、あみだくじのはずれを引かずに済んでいる。
考えてみると、自然の中には直線がない。直線は人の手によるものの中にある。だからやはり人ってありがたい。でも万が一、ホームの縁の線を踏み越えると……、その下に待っている恐ろしい平行線も、やはり人の手によるものだからややこしい。
 危ない目にあったことが、一度だけある。仕事帰りに駅で電車を待っていた。疲れてぼんやりしていたのだと思う。向かいのホームに着いた電車を自分の乗る電車と間違えた。前進すると、杖の先を迎える地面が急に消えた。靴の先がホームの縁から少し出たのが分かった。と同時に、後ろから私の腕をつかんで引っ張ってくれた人がいた。声の感じからすると、若い女の人のようだった。私以上に驚いた彼女に、私はただひたすら礼を言ったのを覚えている。どんな直線も、まさかのときの人の手にはかなわない。

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