家族ほど、互いを傷つけ合える存在はない。
人はなぜ家族を作るのだろうか。
「支え合いたい」
「安らぐ場所を得たい」
さまざまな意見があるだろう。
しかし、私は家族ほどお互いを切り刻める存在はないと思っている。
簡単には離れられないがゆえにだ。
そう、簡単には離れられないのに、人生とはいろいろ在るものだ。
虫の居所が悪い日もあるだろう。
「ヤマアラシのジレンマ」という言葉通り、
自分のトゲが意図せず近くにいる人を傷つけることはままあるものだ。
さらに、
家庭という閉鎖的な場所は客観的な目が入りにくく、欲望のまま傷つけることだってできるだろう。
簡単に離れられないから、逃げようがない。
その関係性がエスカレートすることになることもある。
そう考えると、家族、家庭とは、支え合う側面もありながら、友達や恋人よりも深い傷をおわせることができる関係であるのだ。
なぜこのような記事を書いたのか。
それは、あまりにも家族というものの定義がポジディブなもので溢れかえっているからだ。
「毒親」「親ガチャ」などという言葉が流行っているのにも関わらず、結婚するときよくあるコメントはこうだ。
「あたたかい家庭を築いていこうと思います」
もちろん、未来に向けて希望をもって新生活をスタートさせたいことに異論はない。
そしてやはり、その言葉に嘘はないのだろう。そこも異論はない。
しかし現状はどうだろう。
DV、育児放棄、不倫問題、引きこもり、などなど、家庭で起こるトラブルは見えないからこそ確実に傷跡を残していく。
仕事柄、いろいろな方々のご家庭の事情をきく。
私が見てきた事例は、酷いものから軽いものまでいろいろあるが、結論から言うと、
どう注意しても、受け取り方でボタンのかけ違いが起こるものなのだ。
そして、それに気が付かない。
気が付かないでどんどん進んでいくので、誤解をとくどころか、闇は深まる一方なのだ。
そして思う。
「どうしてこんなことになったのか」
「もっとこういう家庭にしたかったのに」
あえて言えば、どうしてこんなことになったのかという問いも、もっとこうしたかった、という後悔も、全て適していない。
なぜなら、家庭とはそういうことを起こすための場でも在るのだ。
人間同士が長い事近くにいれば、何かしらのことは必ず起こるのだ。
「あたたかい家庭」「笑えの絶えない家庭」をゴールにするからしんどいのだ。
むしろ、人と人との関係において、家族という関係ほど人間の醜さを露呈でき、傷つけることができ、傷つけられることができる場所はない。
家族に悩む人たちに言いたい。
全てのトラブル困難は起こるべくして起こっているのだ。なぜならそういう仕組みだから。そこから多くのことを学んだら、そこに執着する意味はないだろう。
そこからどんな行動を起こすかはその人次第になる。時間がたって関係が改善することもある。
苦しくなった時は、そもそも定義が間違っているのではないかと、思い直してほしい。
キラキラで明るくて素晴らしいものは、どうしようもない闇も同時に併せ持っているものなのだ。
どうしようもない家庭、
どうしようもない自分を丸ごと愛せたら、
世界はそんなに悪くないと、思えるかもしれない。