(文化的)コモンズについてのメモ

コモンズなる概念が巷間広まってきて久しい。文化芸術の領域では、東日本大震災被災地の公立文化施設の実態調査を目的に、一般財団法人地域創造が2012〜2013年に実施した調査研究『災後における地域の公立文化施設の役割に関する調査研究-文化的コモンズの形成に向けて-』において、「文化的コモンズ」という概念が提唱され(調査委員の吉見俊哉氏が発案したと耳にしている)、これをきっかけにして、公立文化施設や芸術祭、アートプロジェクト等による地域の文化圏への貢献を論じるときなどに、盛んに「文化的コモンズ」が使われつつある。

コモンズとはそもそも、資源を共有し使っていくために、みんなで所有する入会地のことだが、近年日本では市民の主体性を活かしたガバナンスや、市井における小さな福祉国家的なコミュニティのありようを指す概念として変奏され定着している。つまりそれは、みんなで所有する場としてではなく、みんなが使うあるいはみんなが共に在るという状態のイメージとしてのコモンズだ。

一般的にコモンズは、公と私の間、公と私が重なる部分、そこを共の領域=コモンズとして位置づけて説明されがちである。公という領域があって、私という領域がある。その前提のうえで、互いに重なる部分が共でありコモンズという捉え方は、あながち間違っていないだろうが、ちょっとしっくりこないところもある。

例えば「新しい公共」、ニュー・パブリック・マネジメントの考え方が公共政策の各領域において活用され、官民あるいは公民協働が国をはじめ地方公共団体の各種政策では推進されている。その際には、この官民あるいは公民が協働するところを共と位置づけるのが一般的な理解であろう。しかし、そういう理解をコモンズという概念にも用いてしまうと、公と私の連携や協働のような「公+私」の図式がそこには横たわっていて、共が「公+私」に資していくような力学が働きかねない気がしている。

「公という輪っか」と「私という輪っか」の重なるところをコモンズとして理解するということは、平面的というか、二次元的な視座からによるもので、コモンズを社会の中で、点あるいは囲いのある領域として理解を促すものと言える。入会地としてのコモンズということであるならば、その理解はよいかもしれないけれど、昨今、文化、アート界隈で求められたり目指されたりしているコモンズということであるならば、公と私の重なるコモンズの領域を、三次元的あるいは、四次元的に、捉えていく視座があってもよいかもしれない。

要するにそれは、縦方向で重なる公と私の立体的かつ層的な位置関係と、コモンズのなかで行われるアクションそのもの、すなわち、時間的な、際限のない横の軸が同居している状態のイメージだ。このイメージだと、公と私の境界線はなくなるか、あるいは曖昧なものとなるし、コモンズのなかでの営みもまた終わりも始まりもなくなっていく。そして、こうした文化的なコモンズの場に必要な態度において何より大切なのは、際限のない、ゴールのない、あてのない時間の流れに対する寛容性に他ならない。「ゆく川の流れは絶えずして」式のコモンズ。そこでは公も私もないだろうに、と思う。

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