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人間は植物ではない

置かれた場所で咲け、という警句をたまに目にする。
現代のsnsにおいては特に、自分の生活が上手く行かないのを行政のせいにせず目の前の仕事や恋愛やその他もろもろに集中せよ、という意味がこもっている場合がしばしばある。

上記のような意味を抜きにしても私はこの警句が嫌いである。
ご存じと思うが植物は置かれた場所で咲かない。
置かれた場所が生育に適した条件を満たし続けて初めて咲くことができる。たとえばタンポポの種は風に乗って飛んでいき、アスファルトの道路に落ちれば車に轢かれ、側溝に落ちればふやけて腐り、川や海に落ちても咲かない。土のある場所に落ち、適切な温度、湿度、養分、日射が無ければ咲くどころか発芽すらしない。
対して我々は動物である。ハガレンのエドワードも”立派な脚が生えとるやろがい”と説教垂れているように我々は根を張れる場所に着地しなければ生育できない植物と違い生活しやすい環境を求めて移動することができる。しかも人間は周囲の環境を整える。エアコンなんか分かりやすいですね。最近大阪で空調がついていないことを前提にした避難生活の訓練をやったらしいが全く非文明的で最悪だと思う。体育館など夏場朝から30℃超えが当たり前、冬は氷点下が当たり前の時代である。もはや空調無しでは通常の学校教育でも熱中症などが後を絶たない。ましてご老体や病人も含まれるのであれば空調設備は必須である。子どもの健康のためにもなるし、教員だって何が悲しくていちいち屋内なのに空調がついてない場所で行事やらその練習やら授業やらやらねばならんのか。来賓のおっさん共も快適な体育館にすれば子供たちが今よりちーっとばかし真面目に挨拶を聞いてくれるかも知れんぞ。災害対応もいい加減前に進まねばならない。

話がそれたがそれていない。というのは上述の意味付けに今から文句を言うからだ。オイオイこいつ文句しか言ってねえぞ。 
政治というのは台風や地震や雨風ではない。人為的なもので、日本は民主制度のある国である。植物は進化の結果身につけた様々な要素を総動員してその場で生育しようとする。対して警句と共に目の前のことに力を注げと言う時、目の前にあるはずの投票行動やデモや種々の社会運動や思考やその出力は作意的に無視されている。
植物に対する侮辱だし、はっきり言って慎ましく生きることを賛美するふりをした怠慢というほかは無い。
そんなことだから社会保障に当てると言われて消費増税され法人税と所得税が下がって結果社会保障が拡充されないようなアホくさい社会になるのだ。だいいち社会保障のお世話になる層が最も消費税が出費に占める割合がデカくなるのに社会保障目的で消費増税などハナから論理が崩壊している。保育士も教員も研究者も医療福祉もみな安い金で時間を買い叩かれているがそれはまさに政治がそう規定し、国民がそれを放置して来たからである。
その象徴的帰結の一つが、岸田が9月に石川県に行って板に書いて見せた空っぽの「頑張りましょう」であり、補正予算も組まず組閣直後に解散の意向を表明しておきながら9か月前から与党幹部だったのに10月になって石川に足を運ぶクソ共だ。あのクソは日本国民がここまでデカくしたんだ。
政治批判しても今の被災者の助けにならないとか言う文章も先日読んだがな、そうして待ってたら次の被災地ができるだけだ。今年も北陸で地震、東北で水害、そして石川で水害だ。その論理に従えばずっと批判できず改善もない。今の被災者のみならず後の被災者の待遇も改善されない。だから1年前どころか30年前の避難所と現代の避難所の景色がほとんど変わらない。戦争になっても非常時だから批判は控えましょうとか言ってそうな下らねえ論理だ。

自らの生活環境を整えれば下の世代にも暮らしやすい場を残す事ができる。政治参加はその重要な手段の一つだ。東大の一部学生たちはまさに下の世代のために授業料値上げに反対してみせた。
それは部屋に入る前のノックの回数やハンコの角度なんかより何百倍も重要な社会人の責任であるはずだ。置かれた場所で咲くのではない。置かれた場所を咲ける場所、咲く価値のある場所にするのである。無理なら場所を変えてもいい。
人間とはつまり全くそれで良いのだ。植物じゃねえからなァ!

おわり。
今回はたんぽぽの写真をお借りしました。

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