趣味に生きて飽きが来た
リタイアして、溢れる時間を自由に使えると勇んだ。
あれから6年が過ぎた。
今、嘆き悲しむほど時間の経過が早いことを実感し、人生は泡のように頼りないものと思うようになった。
趣味に生きるとして始めた俳句、家庭料理も一定の成果を感じている。魚釣りは仲間がいないこと、お金がかかること、釣った魚の命に申し訳ないと思い間もなく止めた。
6年間経って、憧れていた趣味に生きる生活は、仕事生活に比べてみると、生きるという観点から考えると虚しい格差を感じた。
僕にとって趣味の価値は、仕事をしていてこそ、生活を楽しむための一つである、と思うようになってしまった。
趣味には、仕事のような強制と義務がない。お金も絡まない。
幸せな時間なのに、自分は、何のために生きているのか。このまま迎えが来るのを待っているのか。と自問自答してしまう。
僕は、「人は働くように運命付けされているのだ」という言葉が理解できた。
どのように仕事を再開するか、現役時代の仕事や地位や収入には全く未練がない。生まれ変わったように新規一転全く違う、新しい世界の新人としてわくわくする働きをしてみたい。
71歳であった友人が大動脈瘤に襲われ、突然お星様になってしてしまった。彼は、夏はお日様と同じ4時に目が覚めて散歩にでると言っていた。老人の現象だ。
僕は、朝4時から読書と資格勉強をした。2年間経ち、その甲斐があって漸く次の新しい仕事を引き寄せられそうだ。
改めて覚悟したことは、行動の自己決定は自分の責任でするが、判断の基準は神様(=自然)の意思に基づく「敬天愛人」によることにした。
老人の愚直で頑固な「自分らしく生きる」の果てを「終わりよければ総て良し」を目標に、死ぬまで取り組む覚悟ができた。
6年間の趣味の世界に居て、孤独を味わい一人でもがいて、出した結論です。
孤独は、心に大きな成果をもたらした。
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