見出し画像

大病からの奇跡の復活

1.幼少期の不幸

私は、大阪市と言ってもいい兵庫県尼崎市に生まれました。
2歳の時に父親を交通事故で亡くし、その後、乳飲み子二人を抱えた母親は父の弟のとてもだらしない男と再婚しました。幼稚園の頃が、今まで生きてきた中で私の一番幸福な時期でした。
私の母親は、2人目の弟を生みましたが、あまりに養父がだらしなくて、次第に精神を病み、気が付くと家から居なくなり(精神科に入院していた)
家に帰ってきた母親はまるで別人でした。
時どき意味不明の言葉を吐き、怖くてそばによることもできませんでした。そして私が小学校3年の時に、弟と2人、担任から家にすぐ帰るようにと言われ、帰ってみると、母親はもうすでに亡くなっていました。
死因は警察も来て調べたのですが、結局わからずじまいでした。
その後、弟二人で近くの川辺で泣いていた記憶が鮮明に焼き付いています。それから2年間、養父と、弟二人の4人暮らしが始まったのですが、
私が、下の弟の保育園の送り迎えをしていました。本当は、送り迎えもすぐ下の弟と交代のはずだったのですが、いつも弟に逃げられ私がするはめになっていきました。
養父はまともに料理もできなかったので、私が見ようみまで、包丁を握ったりしていましたが、誰からも教わったことがなく、8歳の少年に料理なんて作ることが出来るはずもなく、キュウリを切って、サラダを作るくらいしかできなかったです。そのような生活がつずく中、ある日養父から、1年間田舎に行ってくれ、1年後には又こっちに戻すからと言われ、子供ですから馬鹿正直にその言葉を信じ、私達兄弟3人は、大阪から鹿児島県のド田舎の祖母に引き取られました。

2.田舎での暮らし


都会の最先端の暮らしから、電気しかない明治の暮らしに逆戻りです。
とにかくカルチャーショックの連続でした。
以前は、バスや電車で待つという事が無かったですが、ここは、1時間に
バスが1本通るだけでした。
移動手段は、ほとんど歩く事でした。
一番困ったのは、言葉が分からなかったことでした。
鹿児島の方言は、江戸時代に隠密防止のために作られていたので、
標準語とは全く関連がない言葉で、まるで暗号を聞いているようでした。
もちろんいじめにも会い、クラスからは孤立していました。
それでも家の手伝いが忙しくて、そんなことは気にする暇がありませんでした。
夏は農作業、冬は山仕事。畑の畝はクワで、すべて手作業です。
祖母の家は、電気しかなかったので、水は井戸水。ガスはマキでした。
山仕事は木をノコで切って斧で薪ワリです。ガスがないので、料理も、
風呂もマキを使います。
とにかく金がないので、小学校から、高校までアルバイトし、コズカイを稼いでいました。
その為、部活動には入ることが出来ず、一目散に帰って、家の手伝いをする毎日でした。
中学生からは、祖母も体が弱っっていたので、部落の集会には、家長として
出席していました。ものすごいプレッシャーでした。
酔っぱらいのおじさんに絡まれることも,しょっちゅうでした。
高校も、アルバイトと奨学金で通いましたが、私の夢は【エンジニア】特に、自動車開発のエンジニアになりたかったので、大学の工学部に行きたかったのです。
幸い私は生まれつき速読が出来たので、幼稚園の事の愛読書が百科事典で、
小1には、小6くらいの知識がありました。
おかげで勉強する時間がなくても。国立大には余裕で合格する学力がありました。
その為に、大阪大学に工学部に行きたくて、新聞奨学金で行く段取りまでつけていました。
公務員試験も国から県、他、全部合格でした
ところが祖母から、どうしても地元に残ってくれと懇願され、深く悩みましたが、祖母のおかげで成長することが出来たので、承諾しました。
その後、次男と大ゲンカをし、次男から「老い先短いばあさんのせいで自分の人生を捨てるのか」と言われ、返す言葉もありませんでした。


3.青年期の不幸

先ほども書きましたが、私は生まれつき速読が出来たので、幼稚園の時の愛読書が【百科事典】でした。
祖母に引き取られても、勉強する暇がなくても、いつも学年トップでいられたのはそのためです
私は幸い勉強しなくても頭が良かったので、国立大にも通り、公務員試験にも、国や県を始め全て合格しました。
しかし、祖母の頼みで役場に行く事になり、役場では、財務係でしたので
月の残業も100時間に及び、私の給料と祖母の年金で生計を立てていました。
二人の弟たちも私が高校を出し、特に出来の悪い三男には、毎日弁当を作り親代わりとして高校を出しました。
その頃から祖母は、脳梗塞で倒れ、私が面倒を見ていました。
今考えると、孫の私が祖母の面倒見るのではなく、子供である、おじさんおばさんが祖母の面倒見るべきだったのではと思います。
でも、おじさんたちは、何の援助をしてくれませんでした。
母が亡くなった時、私たちを施設に入れろと言った人達ですから、あまり
関わりたくなかったのでしょうね。
そして、三男が就職した翌日
【祖母が自殺しました】。

そしたら口やかましいのがいなくなったと、さっそくダメ養父が帰ってきました。
私はその後この養父からすごい迷惑をこうむることになります。
借金200万円の肩代わりをしたり、警察に行ったりと、数え切れません。

私自身はと言うと、2回も車に追突され、むち打ちから、その当時発見されていなかった病気にかかり、20年間も寝たきりになりました。
病院をたらいまわしにされ、どの医者からも『気のせいだから精神科に行きなさい』と言われ、私は、民間療法、最後には宗教にも頼りました。

ここから先は

3,089字 / 1画像

¥ 100

この記事が気に入ったらチップで応援してみませんか?