人の一生でつくれるもの

 ゲーテはその天井画を見て、「システィナの礼拝堂を見ないで一人の人間が何を成し得るか考えることは出来ない。」との言葉を残しています。

 それと同じ思いを、極東に住む若い青年に重ね併せて、昨年春に再び富山に足を運びました。当日は、作家の対談イベントがあることを知り、生きることと描くことを同時に成されている方の姿を見たかったからです。昨年度元旦の大震災から2ケ月経ち、道路は工事中が目立ったものの、富山の町並みは奥能登までの被害は表面的には見られず、変わらない北アルプス連峰の峻厳な美しさがありました。今夜などはここもかなりの積雪でしょうね。

 広島県立美術館の山下寿水氏との対談の中では、「彼の絵は『私小説』である」、とのワードが共有され、また、「現代の多くの画家が使うような他のメディアを通さずに、彼の裸眼で見た『私』を表そうとしている。」、といった言説にも納得がいきました。

 実際の風景を見て描く際であっても、気を付けなければならない点は、人間の目は精巧にできているので、すべての場面にピントを合わせますから、そのまま描くと絵に奥行き感が無くなり、単眼で捉えたメディア画面のようになってしまうことです。


 彼の絵もまさにそのいった落とし穴にはまり込んでいると思うのですが、しかし、彼の創り出す画面には奥行きが生じている矛盾があります。部分によっては、彼も敢て形状に暈しを生じさせていることもありますが、基本的にはすべてに焦点を合わせて、ひたすら「私の現実」を写し取っています。ということは、形状ではなく、色そのものに「目の前の今」を表されているから、奥行きが生まれていると思うのです。同じ印象を持ったことを水野暁氏やロペス氏の絵ででも感じたなあと思い出しました。


そして写しとったり何百枚。何万回の筆致を重ねて絵画が生まれ、生み出された展覧会構成は圧巻です。


 会期中に描かれていた絵も完成に近づき(ある意味、従来の彼が目指している完成にはまだまだ遠いのですが、この会期中に描かれたという意味での記録としての完成と言えましょうか。)、生きることと描くことが結ばれている存在に、まさに立ち会った瞬間でした。私もそうなりたいと教えられた次第です。

 今回の訪問直前に、富山県立美術館で「倉俣史郎展」も鑑賞し、堪能しましたが、ジャンルは違えど同じように制作量からくる熱量に圧倒されましたので、とても有意義なものをつかむことができた一日となりました。


富山県立美術館も地域に開かれた素晴らしい空間でした。

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