はざまはいかさま?
「ファミコンって通じる?」
「もう希帆さんくらいだとしらないんじゃない?」
自分よりも何世代か上の紳士たちが、懐かしい話に大いに盛り上がっている。
一緒になって笑っていたら、話がふられた。
あぁ、しまったな。
この場面での模範回答は、「知らない」もしくは「親が持っていた」といったところだろう。
ところが、私は知っている。
昭和と平成のはざまに生まれ、どちらの時代にもどっぷり浸かりながら生きてきたからだ。
どちらでもあるのに、どちらでもない。
そんな「はざま」のアイデンティティ。
昭和世代には「いやほぼ平成じゃないか」とはしごを外されて、平成世代には「いっても昭和でしょ」と弾かれる。
令和の今となっては、もはや平成も昭和も過去の誤差範囲だ。そもそも平成は31年め、昭和は64年めまであったのだから、どちらかといえばその幅が一緒くたにされていることのほうに違和感を覚える。なんたるどんぶり勘定。
自分の中では確かな手触りがあるのに、白黒ついた相手の前では、するすると手から解けていってしまうような不思議さ。
それは生まれ年に限ったことじゃない。
国籍を越えて生まれたり、自認する性別が生物学的な判断とイコールではなかったり。
はざまは、既存のカテゴリーからこぼれた溝というより、誰かもしくは自分が主観的に引いた線から逸脱した時に生じる。
ひとは平面的じゃない。もっと多層的で、深部や飛躍した部分も持ち併せている。
はざまは、いかさま。主観のもちようで、もっと自由になれるかもしれない。
「実家にファミコンがあったんですよね」
父が過去に買ったものなのは、事実。
自分もマリオをやり込んだのは、内緒。
「あー!それでね!知ってるんだ」
「はい!あと私、兄がいるのでみてました」
兄がいるのは、本当。
兄とスト2をやり込みすぎて、私の親指にはマメができていたのは、内緒。
「なるほどねー!そっかそっか!」
エノコログサのように、そよそよ柔軟に揺れていたいものだ。