溢露徒歩次郎の眇眇たる日常
その日、徒歩次郎は渋谷に用事があったため、久しぶりに田園都市線に乗った。
午後の上り電車は比較的空いていて、スマホをいじる青年と、居眠りをしている老婆の間の席に腰を下ろした。
電車が発車すると同時に老婆の頭がこちら側に傾き始め、間もなくすっかり徒歩次郎の肩が老婆の旅枕と化した。
徒歩次郎は心の中で「ですよねー」と言いながら、こういう時どうしたら正解か、という人類が何万回思案してきたであろう疑問の答えを探した。
1・コホン、と咳払いでもしてみる。
2・優しく肘で小突く。
3・いっそ自分も反対側の青年の肩にもたれて寝る。
4・勢いよく離席して老婆の頭をシートにぶつける。
5・疲れて居眠りしてしまった母親(実家から観光に来た)に肩を貸しながら、スマホで夕食の店を探している優しい息子、を演じる。
正解どうかわからないまま結局5番の選択肢におさまる徒歩次郎は、これが老婆でなく綺麗なお姉さんだったらどんなに、、いや、そうでなくて本当によかったと思った。
仮に綺麗なお姉さんだった場合、対応の難易度はまた格段に上がってしまうからだ。
優しく放置しても、周りからは「あいつラッキーだと思っているな」と映り、わざとらしく起こそうとしても、「下心のない誠実な人間を演じているな」と映る。
徒歩次郎は一度、『遊園地で遊び疲れて帰りの電車で眠ってしまった恋人に肩を貸す青年』を演じていたら、ぎりぎり目的地前で目を覚ましたその女に、恐ろしいほどの目つきで睨まれ、すぐさま隣の車両に逃げられたことがあった。
何もしなかっただけなのに、痴漢か変質者扱いされてしまったわけだ。
まったく恐ろしい世の中だ。
老婆は、このまま起きなかったらやべえなと感じるほど眠りこけていた。孝行息子を演じ続けて、押上まで行ってしまったらどうしよう、、、そしたら開き直って「母さん見たいって行ってたよね」と言って一緒にスカイツリーでも登ろうかな。そのあとはもんじゃでも食べながら、「歳とったねー」「あんたもすっかりオジサンだねー」などと話し、親子の空白の時間を埋めてみようかな。
いつのまにか隣で眠る老婆が本当の母親のような気すらしてきた徒歩次郎は、それまでにも増して、微動だにしないことを心がけるのだった。
電車が池尻大橋駅に停まった。
死んだように動かなかった老婆が、電気ショックを受けたように起き上がった。
「お、母さん起きたかい」とでも言うように微笑む徒歩次郎。
しかし、恐ろしい形相で徒歩次郎を睨みつける老婆のそれは、かつての綺麗なお姉さんのそれとまったく同じであった。
逃げるように電車から降りていく、母親でもなんでもなかったただの知らない老婆を見ながら、徒歩次郎は思った。
まったく恐ろしい世の中である。
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