徒歩次郎は自分の歳を数えたことがない。
徒歩次郎は自分の歳を数えたことがない。
Apple music の80年代歌謡曲のプレイリストを聴いて懐かしく思うくらいだから、どうやら人間で言うところの40〜50歳くらいに当てはまるようだ。
生物学的には「猫」のはずなのだが、猫にして随分長生きしているものだ、と徒歩次郎は毎年のように思っている。
先日、徒歩次郎は、たまたま立ち寄ったバーで、長渕剛の「とんぼ」が流れているのを聞いた。
三軒茶屋から下北沢寄りの、商店街のはずれにある静かなバーだった。
長渕氏の曲は、概ね「きれいな長渕期」と「荒くれ期」と「なんか一周回って仏に近づいた期」と分類できる、と聞いたことがあるが、やっぱり自分は初期の「順子」あたりが好きだな、などと思いながら、徒歩次郎は少し格好つけてテンプルトンのハーフロックを飲んでいた。
しかし、久しぶりにちゃんと聞く「とんぼ」は思いのほか沁みて、歌詞のひとつひとつがいまさら心に刺さった。
「死にたいくらいに憧れた花の都大東京」
そういえば、徒歩次郎もまた、東京に憧れ、挫折し、挫折を他人の、東京のせいにした。
徒歩次郎が東京に出てきたのは、人間で言うところの26歳くらいの時だった。
それまで東大阪のボロマンションに、同じ劇団をやっていた仲間と住んでいたのだが、ある日家に帰るとその仲間が、たまごクラブを読みながら、「つまりそういうことやねん、、」と引退宣言をしたため、活動の場所を移すべく上京を決意したのだった。
新しい生活はやっぱりワクワクしたし、さみしい夜はミクシィの「映画好きコミュニティ」や「ジョジョの奇妙なコミュニティ」や「武田鉄矢コミュニティ」が癒してくれたし、それなりに楽しかったと思う。
しかし東京には何もコネもなく、なぜか事務所に入るつもりもなく、オーディションも受けず、なのに「いい仕事ないかなー」とぼやきながら毎日バイトに明け暮れていた。
アホだったのだ。
徒歩次郎は当時、「補修屋」と呼ばれるバイトをしていた。建築現場などで、意図せず付けてしまった木製品の傷を補修する仕事だ。バイト専門誌の募集要項には、美大出身者に限ると書いてあったのだが、応募して面接したらなぜか受かってしまった。
会社には女社長と、事務員が一人、作業員が八名ほどいたが、時期によっては大手ゼネコンのタワーマンション案件を請ける会社としてはかなりの零細だった。少数精鋭とも言えるが、そのぶん仕事は忙しく、自由に休みをとることも難しかった。加えて、技術もないのに入社してしまった徒歩次郎は精鋭でもなかった。
新築マンションの瑕疵を毎日毎日補修しながら、徒歩次郎は「ゼロから何かを作り出す仕事をしに東京に来たのに、俺は毎日他人が作ったマイナスをゼロに戻すだけの仕事をしている!頭がおかしくなっちゃう!」とノイローゼぶったりしていた。
心が病みそうだから酒飲んだっていいよね、と言って暴飲し、心が病みそうだからパチンコしたっていいよね、と言ってボロ負けし、心が病みそうだから家事なんかしなくていいよね、と言って家の中はいつもゴミ屋敷状態だった。
働いているのに常に金が無く、仕方がないので深夜は高田馬場で漫画喫茶のバイトをした。漫画喫茶の深夜帯はダブルワーカーも多く、「夢だった保育士になれたはいいけど保育士の給料だけでは食べていくのに精一杯で奨学金が返せないから寝ないで深夜もバイトするしかない」という地獄のような同僚の話を聞きながら、「田舎から同窓会のお知らせが届いたけど自分のことが恥ずかしくて無視した」くらいのぬるい出来事しかない徒歩次郎は無言でうなづくしかなかったりした。
一年くらいダブルワークを続けた結果、当然といえば当然だが、徒歩次郎はちょっぴり体を壊した。
朝起きられなくなり、起きていても常に猛烈な睡魔に襲われ、駅から家までの道を歩きながらガン眠りして何度も転んだ。
さすがにマズイと感じ、保育士の同僚に心の中で謝りながら漫画喫茶を辞めたのだった。
つづく
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