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沢木2.2 シンガポール編2

16.群青のサファイア

翌朝、特にこれといった目的地も浮かばなかった僕は、ふと「昭南神社の跡地でも見に行こうか」と思い立った。昭南神社。日本軍がシンガポールを占領した際、マクリッチ貯水池の森林内に建立したという神社だ。その歴史的背景にどこか惹かれるものがあった。
最寄りのバス停に向かうと、そこには日本語の看板が掲げられていた。妙に懐かしい感じがしたが、同時に何か奇妙な感覚も覚えた。バス停からハイキングコースに入ると、整備された緑の道が続いていた。時々ジョギングをする人たちが僕を追い越していく。シンガポールと言えばビルが立ち並ぶ都会のイメージが強かったけれど、昨日訪れた植物園といい、この貯水池といい、統制の取れた自然がしっかりと共存している。それはまさに「統制の国」の真髄を見せつけられているようだった。
しばらく進むと、煉瓦の壁とコンクリートの塊が目に入った。これが昭南神社の名残なのだろうか。その荒廃した姿にはどこか物悲しさが漂っていたが、深く掘り下げる気にはなれず、僕はそっとその場を後にした。歴史の痕跡を感じ取るには、それだけで十分だった。


次に向かったのはリトルインディア。駅を出た瞬間、目の前をサリーを身にまとった女性が横切っていく。その光景に、少しフィジーを思い出した。イギリスが連れてきたインド系移民の痕跡が、どんなに距離が離れていても似たような町並みを生むのだろうか。その独特な雰囲気に、僕はどこか懐かしさを感じた。
通りには花輪や小さな仏像、サリーが売られていて、スパイスの香りが鼻をくすぐる。ヒンドゥー教の寺院にも入ってみた。そこにはインドの片鱗が息づいており、異国情緒が目一杯に広がっていた。僕は歩きながら、五感を使ってこの小さなインドを味わった。


そんな中、スマートフォンのライトニングケーブルが断線してしまうというアクシデントに見舞われた。「ここなら安く手に入るに違いない」と思い、あたりを探してみると、案の定、1ドルで新しいケーブルを見つけることができた。


バスに揺られていると、西洋風の建物が立ち並ぶエリアが目に飛び込んできた。僕は思わずその景色に惹かれ、次の停留所で降りてみることにした。そこは博物館が集中する文化的な街区だった。アートハウス、ナショナルシンガポールギャラリー、ビクトリアシアター 。名前を聞くだけで知的好奇心が刺激される。どれに入ろうか迷った末に、僕はアジア文明博物館を選んだ。
館内にはアジア各国の歴史や文化に関する展示が広がっていたが、特に日本に関するものが目を引いた。火縄銃や有田焼、そして隠れキリシタンに関する展示品。すり減った踏み絵や、十字架と仏像が一体となった意匠、さらには刀の鍔に十字架が刻まれたものまで。これらは僕が日本で見たことのないものばかりで、異国の地で日本の歴史を新たな視点から学ぶという、なんとも不思議で面白い体験だった。


この街の多様性を改めて感じる。NSUや博物館街に漂う欧米の空気。リトルインディアの濃厚なインド感、アラブストリートの中東の香り、そしてチャイナタウンの中国の息吹。まるで世界を縮図にしたような場所だ。ここは確かに「アジアの交差点」と呼ぶにふさわしい。
次の目的地を探していると、Googleマップで「鉱物博物館」という名前が目に留まった。説明には、世界中から集められた鉱物や宝石が展示されていると書かれている。展示は、鉱物の形成から採掘、カット、取引までのプロセスを4つのステージに分けて紹介しているらしい。大学時代、鉱物学の授業を受けながら、試験勉強の代わりにティファニーのパンフレットを読みふけっていた記憶が蘇る。そのパンフレットと授業の間に横たわる「何か」を知りたくなり、博物館へ行ってみることにした。
館内には色とりどりの鉱物が並んでおり、その種類と美しさに圧倒された。ティファニーのパンフレットでも授業でも触れることがなかった実物の鉱物を目の前にして、心が躍る。見慣れない名前、複雑な化学式、鮮やかな色彩。そのどれもが僕に新たな知識と感動を与えてくれた。
さらに、館内で働くスタッフのお姉さんが、展示品を詳しく説明してくれた。彼女の解説に対して、化学式や物理法則を交えながら会話をする中で、僕の高校時代の先生が言っていた言葉を思い出す。「数学と理科は世界共通語だ」。その言葉通り、国境を越えた対話ができる喜びを改めて感じた。


シンガポール滞在の終盤、動物園に行くかどうか迷った。値段が高い。それに、つい先日シドニー動物園を訪れたばかりで、動物を見ることへの新鮮さも薄れている気がした。だが、「River Safari」という名に惹かれ、足を向けることにした。川や水域をテーマにした動物園と水族館の中間的な場所 。アマゾン川、ナイル川、長江、ガンジス川、ミシシッピ川、そしてメコン川、それぞれの川に生息する生き物たちを集めた展示だという。これはただの動物園ではない、世界を巡る旅そのものだと思った。
順路に沿って進むと、川魚たちの驚くべき多様性が目の前に広がった。アマゾンのピラルクーが悠々と泳ぐ姿や、メコン川の巨大ナマズには圧倒された。生物たちはその土地の川に根付いた文化や歴史を語っているようで、これからの世界一周の旅の予習をしているような気分になった。時折、自分の旅路がこれらの川と交わるのだろうかと想像しながら、19時の閉園時間までじっくりと堪能した。


その後、「ナイトサファリ」にも足を伸ばした。こちらは夜行性の動物を夜に観察できる動物園だという。そのコンセプトに興味を惹かれた。夜のジャングルを歩きながら、昼間には見られない生き生きとした動物たちの姿を追う。檻の代わりに川や自然の障壁を活用しているため、日本の動物園のように「閉じ込められた感」がなく、むしろ動物たちの領域に僕が足を踏み入れているような感覚があった。暗闇の中、静かに動物たちの生活を垣間見る時間は、昼間とはまったく違う世界を覗き見ているようだった。


そして、旅の締めくくりに向かい、空港へ戻る。シンガポール空港の「Jewel」に立ち寄ったが、夜だったため、名物の滝は稼働していなかった。それでも、外には恐竜の模型がライトアップされて並んでいた。静かな夜の空間に佇む恐竜たち。その姿はどこか時間の流れを超えた存在のようで、少し不思議な気分にさせられた。


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