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変身物語2 稚内編
札幌・大通近くの古びたビジネスホテル。
窓の外には重たげな雲が垂れ込め、冬から春へと移ろう季節の不安定な気候が続いていた。
映司はテーブル代わりの小さな机に向かい、タブレットの画面と睨めっこしていた。
北海道の地図を開き、「神話の水辺」を思わせる場所や伝承を探している。
一方、ベッドの端では、ガラティアが壁にもたれ、静かに考え込んでいた。
時折、深い呼吸をしては胸を押さえる。
「大きな水の流れ……氷と混じり合う場所……」
呟くたびに、その言葉が映司の頭にこびりつく。
「氷と混じり合う水」
それは冬の北海道を連想させるが、季節はすでに春に向かいつつある。
オホーツク海沿岸の流氷シーズンも、ピークを過ぎかけていた。
「稚内か、網走か、知床か……どこも海に面してるし、流氷の季節には海辺が白く覆われるよな」
思案しながら呟くと、ガラティアがゆっくりと目を上げる。
「『稚内』……その響きが、少し気になるの」
「稚内?」
映司は意外そうに彼女の言葉を反芻する。
「うん。いちばん北のほう、なんだよね?」
「日本最北端の街、だね。本州の人からすれば“最果て”って感じかな。オホーツク海と日本海が交わる場所で、利尻島や礼文島も近い。でも、流氷なら道東の網走や知床のほうがイメージ強いけど……」
「でも……なぜか“稚内”が引っかかるの」
ガラティアの瞳が不安げに揺れる。
「そこに行ったら、何か思い出せる気がする……」
「思い出せる」ではなく、「思い出さなければならない」ような、そんな切迫感があった。
映司は肩を回しながら、タブレットを閉じた。
肩の痛みはまだ残っているが、湿布のおかげか、しきりにうずくような重苦しさは和らいでいる。
「よし……決めよう。ひとまず北に向かってみるか」
映司はタブレットを脇に置き、ガラティアを見つめる。
「稚内だな。道中で情報を集めつつ、もし手がかりがなかったら、網走や知床に方針を変える。そんな感じで、“流浪の旅”をしてみるしかないよ」
ガラティアの表情がわずかに緩む。
「……ありがとう、映司」
二人の間に、確かな決意が生まれた。
札幌に長居していても、ポリュペーモスがいつ襲撃してくるかわからない。
であれば、思い切って道北へ逃れ、何かしらの手がかりを探したほうが得策だ――
それが二人の結論だった。
札幌の夜。
バスターミナルの人工的な光が、冷たいアスファルトに反射している。
稚内へは、JRの特急やレンタカーなど様々な移動手段があったが、映司たちは深夜バスを選んだ。
できるだけ目立たず、長時間人混みに紛れて移動できる手段。
それが、最適だった。
ガラティアが不安そうに車内を見回す。
長距離移動用のリクライニングシートとはいえ、座席はやはり窮屈だ。
乗客の大半は、学生グループや出張のビジネスマンたち。
それぞれ眠る準備を整え、薄暗い車内には静かな空気が漂っていた。
映司は通路側の席に座り、ガラティアを窓側に誘導する。
「狭いけど、ここならあまり周りの目を気にしなくて済むから」
バスが札幌駅付近を出発し、街の灯りが徐々に遠ざかっていく。
やがて、車内の照明が落とされ、ほの暗い闇が広がる。
「ごめんね、もっと快適な旅にしてあげられなくて」
「ううん、構わないわ」
ガラティアは、ほんの少し微笑む。
「わたしには……こうして誰かと一緒にいられるだけで、ありがたいの」
映司の胸が、不意に熱くなった。
ほんの数日前まで、名前すら知らなかった少女。
なのに、彼女を放っておけない。離れたくない。そう思ってしまう。
エンジンの低い唸りが車内に響き、バスはゆっくりと揺れ始める。
暖房が効いているとはいえ、途中の休憩で外に出れば、冷気が肌を刺すだろう。
映司は、ガラティアにブランケットを渡した。
「疲れてるだろ? 眠れそうなら、少し寝たほうがいいよ。俺もウトウトするかもしれないけど、気配は察するから」
「ありがとう……映司は優しいわね」
ガラティアは小さく笑い、ブランケットを体に巻きつける。
狭い座席、隣には映司。
かすかに伝わる彼の温もりが、彼女の心を落ち着かせた。
(“エイシスとガラティア”ーギリシャ神話では、ガラティアは一つ目の巨人ポリュペーモスに追われ、愛するエイシスを奪われる。
けれど、彼の死後、彼女の力によって川の神となり、永遠に流れ続ける存在になった。
――もし、あの神話が今、再び形を変えて繰り返されているのだとしたら?)
ガラティアの意識は、ゆっくりと闇に溶けていく。
目を閉じるたび、断片的なイメージが浮かび、そして消えた。
青く透き通った水。
吹きすさぶ雪の結晶。
そして、轟音とともに地響きを立てる、巨人の影。
バスの後方。
誰も気づかない座席に、一人の男が座っていた。
黒いダウンジャケット。
サングラスは外しているが、威圧感は隠しきれない。
ポリュペーモス。
彼は、このバスに乗り込んでいた。
「フン……札幌から逃げるつもりか」
低く、押し殺した声。
「だが、どこへ行こうと、俺からは逃れられん」
拳をゆっくりと握りしめる。
今は、まだ動く時ではない。
車内で騒ぎを起こせば、すぐに通報される。
それは、得策ではない。
(あの時、ガラティアの力が暴走しかけた。あれさえなければ、すぐにでも奪い取れたものを……)
ポリュペーモスの目が、険しく細まる。
(だが、今度こそ絶対に逃がさない)
前方の座席。二人のシルエットを睨みながら、ポリュペーモスは静かに息を吐いた。
やがて、深夜の高速道路を走るバスは、途中のパーキングエリアで休憩を取る。
薄暗い外灯の下、乗客たちはぞろぞろと降り、トイレや自販機へ向かう。
ポリュペーモスも静かに席を立ち、遠巻きに二人を観察した。
映司とガラティアは、車内で仮眠を取っていたが、映司が「休憩だよ」と声をかけ、二人でバスを降りる。
「うわ、さすがに冷えるな……!」
道北の夜は、想像以上に冷たかった。
ガラティアは肩を震わせ、映司に寄り添うように歩く。
自販機の前で、ホットドリンクを買おうとしたその瞬間――
映司の背中に、ぞわりとした感覚が走った。
「……どうしたの?」
ガラティアが小さく首を傾げる。
映司は、ふと背後を振り返る。
「いや……なんでもない。勘違いかな」
確かに、誰かの視線を感じた気がした。
だが、周囲を見回しても、そこにはただの闇しかない。
ポリュペーモスは、まだ動かない。
(今はまだ時期尚早……どうせ奴らは最果てまで行く)
(そこで――ゆっくり追い詰めてやるさ)
ポリュペーモスの口元に、不気味な笑みが浮かんでいた。
深夜バスは、夜明け前にいくつかの停留所を回りながら、ようやく稚内駅近くのターミナルへと滑り込んだ。
外は灰色の雲が垂れ込め、冷たい風が雪を舞い上げている。
札幌よりも明らかに冷たい空気が、肌を突き刺した。
「寒い……!」
ガラティアがマフラーをぎゅっと顔に巻き付ける。
映司は小さく笑いながら、自分の厚手のパーカーを彼女の肩にかけた。
「俺は少し体があったまってるから大丈夫。君が風邪ひいたら大変だよ」
駅前の道を歩くと、港の方角がぼんやりと見える。
だが、そこに広がる海は鉛色に濁り、遠くの景色は風雪にかき消されていた。
(晴れていれば、利尻富士が見えることもあるんだけどな……)
観光名所として知られる最北の地は、この日、荒涼とした静寂に包まれていた。
「とりあえず宿を探そう。昨日と同じように安宿でいい? ただ、稚内は観光地だから、意外と料金高いかも……」
「ええ、どこでも構わないわ。夜行バスの移動で疲れちゃったし、少し横になりたい」
二人は駅前の小さな観光案内所で情報を仕入れ、駅裏手のビジネスホテルにチェックインした。
部屋は狭いが、暖房が強めで助かる。
朝のうちに入室できたのは幸運だった。
カーテンを開けると、窓ガラスに雪が斜めに叩きつけている。
「うわ、天気が荒れそう……」
「海側はもっとすごいかも。こういうときに流氷が接岸すると、凍りついたみたいな景色になるらしいけど……」
窓の向こうには、遠くにぼんやりと霞む海岸線。
そこに「何か」が待っているのかもしれない――そんな予感が、ガラティアの胸をざわつかせた。
昼前、二人は防寒をしっかり整えて外へ出た。
雪と風は相変わらず強い。
それでも、最北端まで来たのだ。
港周辺の様子を見ずにはいられなかった。
駅から歩くことしばらく、防波堤ドームや北防波堤が見えてくる。
普段なら観光客で賑わう場所だが、この日は悪天候のため、人影はまばらだった。
風雪にさらされたコンクリートが、どこか寂しげな雰囲気を醸し出している。
そして、視界の先に広がる海。白く凍った塊が、びっしりと漂っていた。
波に乗り、押し寄せる流氷が、岸辺へと押し付けられる。
「……これが流氷……? 本当に氷の世界……」
ガラティアは言葉を失った。
灰色の空の下、流氷は静かに揺れながら海面を埋め尽くしている。
まるで、世界の終わりを告げるかのように。
「ねえ、映司。ちょっと触ってみたい……」
「やめといたほうがいいよ。滑るし、危ないから」
映司も、その迫力に圧倒されていた。
近づいてみたくなる衝動はあるが、冬の海は一歩間違えれば命に関わる。
ガラティアは、波打ち際を見つめたまま、まるで何かを探すかのように目を細めた。
「ここじゃないのかもしれない。でも……海が強く呼んでいる気がするわ」
「呼んでる? どういうこと?」
「わからない。でも……波の音の奥に、わたしに語りかけてくる声がある。
“お前はここに帰るのか、それともまだ先へ進むのか”って……そんなふうに聞こえるの」
映司は神妙な顔で彼女を見つめた。
(本当に……この海が、彼女を呼んでいるのか?)
彼女が神話の存在ならば、この海に何かの「答え」があるのかもしれない――
ビュウッ――!
突如、凄まじい風が吹きつけ、二人の視界が雪煙に覆われた。
映司はとっさにガラティアの腕を掴み、転倒しないよう支える。
雪嵐のような白い塊が風に乗って叩きつける中、すぐそばで足音が聞こえた。
「映司……今の足音……」
「ああ……まずい」
振り返ると――
そこには、見覚えのある屈強な男が立っていた。
ポリュペーモス。
「よお。相変わらず寒そうにしてやがるな」
吹雪の中でも、ものともせず、彼の鋭い眼光が光る。
映司はとっさにガラティアを庇いながら、身構えた。
「どうしてここに……!」
「フン、深夜バスで寝ている姿も可愛らしかったぜ。ずいぶん遠くまで逃げたつもりかもしれんが、甘いんだよ」
(……最初から追われていた!)
映司は戦慄する。
ポリュペーモスは最初から「狩る」つもりでいたのだ。
「ガラティア、返してもらおうか。お前がいないと、俺の“目的”は達成できない」
映司は、ギリッと歯を食いしばる。
「ふざけるな! ガラティアは渡さない!」
「そうか。ならば力づくで思い知らせてやろう」
ポリュペーモスが、一歩踏み込んだ。
吹雪の中、激しい戦いが始まろうとしていた。
男がズカズカと歩み寄ってくる。
危うい足場の上で、一歩踏み外せば海に転落しかねない状況だ。
映司はガラティアを背中にかばいながら、声を張り上げた。
「ふざけるな! あんたが何者か知らないが、ガラティアを連れ去ろうなんて許さない!」
「そうか。ならば力づくで思い知らせてやろう」
次の瞬間、ポリュペーモスは信じられないほどの速さで踏み込んだ。
映司はかわしきれず、顔面スレスレに拳が振り下ろされる。
とっさに頭を低くして回避しようとするが、肩口に衝撃が走った。
「う……がっ!」 痛めていた肩をさらに強打され、映司はたまらず雪に膝をついてしまう。
ガラティアが悲鳴をあげ、彼の腕を取るが、ポリュペーモスの猛攻は止まらない。
「映司っ!」
「心配するな。お前もすぐ連れて行ってやる。抵抗するほど痛い目をみるだけだ」
ポリュペーモスは荒々しくガラティアの腕を掴もうとする。
だが、ガラティアの瞳がかすかに青白い光を帯び、吹雪の向こうから奇妙な気流が渦巻き始めた。
「やめて……!」 轟、と耳鳴りのような音。
ガラティアを中心に、海風が反転したかのように吹き荒れ、周囲の雪と氷片が巻き上がる。
ポリュペーモスは瞬間、動きを止めて顔をしかめる。
「くっ……またその力か!」 彼が一瞬ひるんだ隙に、映司はガラティアを抱えるようにして後退する。
足元がぬかるむ氷混じりの砂浜。
まともに走れそうにないが、とにかく距離を取るのが先決だ。
「ガラティア、しっかり立てる?」
「大丈夫……でも、あの力……コントロールできない。映司にまで危害を及ぼしそう……」
海風はますます激しくなり、寒気が肌を刺す。
ところが、ポリュペーモスも簡単に引き下がる気配はない。
目を鋭く光らせ、足場の悪い場所を強引に進んでくる。
ガラティアが発する不思議な風をものともせず、歯を食いしばりながら接近してくるのだ。
「逃げられると思うな、ガラティア……!」 男の足元でゴリッという音がした。
氷が割れるような感触。
強い体重がかかった瞬間、表面が凍っていた波打ち際が砕け、男の足が膝あたりまで水に沈んだ。
「うおっ!?」 ポリュペーモスがバランスを崩しかけ、咄嗟に氷塊を掴んで踏ん張る。
その隙に、映司とガラティアは必死に防波堤の方へ逃げようとするが 、突如、大きな流氷の塊が風に煽られ、岸へ押し寄せてきた。
二人の足場にも危険が迫る。
腰ほどの高さになった氷塊が波に乗ってゴロゴロと転がり、ぶつかってきたのだ。
「わ、危ない……!」 ガラティアをかばおうとした映司が氷の塊に背を押され、足を滑らせる。
勢いのまま冷たい海へ倒れ込みそうになるが、彼女が腕を掴んでくれた。
しかし、その衝撃で二人とも海に転落しかけ、膝下まで浸かってしまう。
「映司っ!」 「だ、大丈夫……っ、冷たい……!」
一瞬で体温が奪われるような絶望的な冷たさ。
北海道の冬の海は、下手をすれば数分で低体温症に陥るほど危険だ。しかし、水に触れているところから、不思議と体が回復している気がする。
急いで這い上がろうとする映司を、ガラティアがなんとか引っ張る。 ガラティアの力だけでは引きあがれない、そう思ったが、液体である水を確かに踏んでいる気がした。
まるで、水の上を歩けるかのように。
今が逃げるチャンス。 映司は海を踏み台にして、なんとか岸辺へ戻った。ガラティアも体を震わせながらついてくる。
ずぶ濡れのズボンが凍りそうに冷たいが、ひとまず距離を稼げそうだ。 「ガラティア、走れる? とにかくホテルまで……!」 「うん……っ!」 体中が震える中、二人は防波堤ドームへ向かって全力で駆ける。
後ろを振り返ると、ポリュペーモスが氷の中に片足を取られながら激しい怒声を上げていた。今のところは追ってこられないだろう。
「覚えてろ……必ず捕まえてやる……!」
その怒りの叫びが、吹雪の風にかき消されていく。
映司とガラティアは、吹雪の中を震えながらホテルへと駆け戻った。
靴の中まで雪が染み込み、指先の感覚がほとんどない。
フロントの受付にたどり着くと、従業員が一瞬驚いたような顔をした。
「すみません、鍵を……!」
映司が息を切らしながら言うと、フロントの女性は怪訝な表情を浮かべつつも、無言で鍵を手渡した。
部屋のドアを開けると、暖房の効いた空気がふわりと広がる。
その瞬間、映司はようやく安堵の息をついた。
「……死ぬかと思った」
靴下もズボンもびしょ濡れだった。
映司は靴を脱ぎ捨てると、そのままズボンを絞る。
だが、冷え切った布地はほとんど水を吸い込んだままで、まるで凍った氷布のようだった。
ガラティアも、震える指で濡れた衣服を脱ぎ、バスタオルを巻きつける。
それでも、肩の震えは止まらなかった。
「ごめん……わたしのせいで……」
「何言ってるんだよ。ポリュペーモスが悪いに決まってる」
映司は、ガラティアの肩を優しく叩いた。
「それに、俺だって好きで一緒にいるんだから、謝らないで」
暖房の温度を最大にしながら、映司はバスルームを指差す。
「君が先に入れ。身体を温めないとヤバいぞ」
ガラティアは涙ぐみながら、映司の手をそっと握った。
「映司……あなたも冷えてるのに。肩の痛みも……」
「俺は後でいい。まず君が入って温まれ」
「……ありがとう」
ガラティアは、震えながらバスルームへと消えていった。
映司は両手をこすり合わせながら、唇を噛む。
(怖かった……)
ほんの少しバランスを崩していたら、あのまま海の底に沈んでいたかもしれない。
そして――
(次にポリュペーモスに襲われたら、本当に逃げ切れるのか……?)
映司はぎゅっと拳を握りしめた。
しばらくして、ガラティアがバスルームから出てきた。
映司の貸したパーカーとズボンを身につけているが、まだ体の震えは完全に止まっていない。
「ごめんなさい……寒さも怖いけど、また彼が来ると思うと……」
ガラティアは、ベッドに腰掛け、目を閉じて深呼吸する。
「……あいつ、執念深すぎるよな。どこまでもつけてくるなんて……」
映司は、一瞬警察を頼ることを考えた。
だが――
ポリュペーモスの異常な執着と、非常識な怪力を思い出す。
(普通の法執行機関が対処できるのか?)
もし逮捕されたとしても、何らかの方法で再び現れる気がする。
映司は、地図アプリを開く。
「稚内の海で“呼ばれた”のが本当なら、まだ先があるはずだ」
網走、知床――オホーツク沿岸を東へ進むルート。
あるいは、旭川方面から再びルートを南下する方法もある。
「網走や知床も、冬は流氷で有名だし、もっと“大きな水”を感じられる場所かも」
映司はつぶやく。
「そっちを回って、釧路湿原や道東を巡ることもできる。」
「ええ……行きたい」
ガラティアは、映司の手をそっと握りしめた。
その指先はまだ冷たい。
だが、彼女の瞳には揺るぎない意志が燃えている。
「苦しいけど、逃げ回ってばかりもいられないわ。先へ進みましょう、映司」
映司は、彼女の手を強く握り返した。
ただ逃げるだけではなく、戦うために 、二人は次の地へと向かう決意を固めた。
窓の外は、昨日と同じ灰色の空。
夜明けとともに吹雪は止んだが、稚内の街は冷たく静まり返っていた。
「ここも長くはいられないな。あいつにまた見つかったら終わりだし……」
映司は、肩に湿布を貼りながら荷物をまとめる。
北海道の最北端まで逃げてきたはずが、ポリュペーモスの執念深さを思い知らされただけだった。
「そうね……。ここでじっとしていても、海が“答え”を教えてくれるわけじゃなさそう」
ガラティアの声には、どこか諦めにも似た静けさが滲んでいた。
昨夜、湯船で十分に体を温め、今朝も朝風呂に入った。
それでも、吹雪の中で感じた恐怖が、まだ彼女の表情に残っている。
稚内から網走までの直通便はない。
鉄道やバスを乗り継ぐにしても時間がかかる上、ポリュペーモスにまた途中で襲われるリスクもある。
「とはいえ、レンタカーを借りる余裕は金銭的にキツいし……。どうしようか」
映司が頭を抱えていると、ガラティアが小さく呟いた。
「……誰か、車で連れて行ってくれる人が偶然いてくれたらいいのに」
冗談めかした響きだった。
朝食を済ませ、ホテルのロビーを抜けようとしたときだった。
「おや、あなたたち、網走方面に行くのかい?」
軽快な声が背後から飛び込んできた。
振り返ると、そこには奇妙な雰囲気をまとった男が立っていた。
黒っぽいダウンコートにマフラーを巻き、サングラスではなく丸い眼鏡をかけている。
年齢は30代か40代くらいにも見えるが、どこか若々しさと老獪さが同居しているような風貌だ。
身長は高めでシュッとした体躯。
やや茶色がかった髪を無造作に下ろしており、まるで外国人かハーフのようにも見える。
映司は警戒しながら応じる。
「網走って……いや、そう行けたらいいなとは思ってるんですけど」
男はニヤリと笑い、肩をすくめる。
「僕もね、網走か知床あたりまでドライブする予定で、実は同乗者を探してたんだ」
「え?」
「よかったら一緒に行くかい? もちろんタダで、とは言わないさ。ガソリン代の一部を少し出してくれればいい」
「え、でも……俺たち、初対面ですよね?」
映司が不審そうに目を細めると、男は屈託なく笑った。
「ははは、そう警戒しないで。ここら辺、公共交通が不便だろう? お互いウィンウィンってやつさ」
「僕は観光情報にも詳しいし、君たちも移動しやすい。悪い話じゃないと思うけどなあ」
男の声には、不思議と耳を引きつけるリズムがある。
芝居がかった大げさな口調ではないのに、どこか“言葉に魔力”があるような感覚だ。
ガラティアも困惑しつつ、どこか惹かれるようにその男を見つめていた。
「……映司、どうする?」
映司は正直かなり迷う。
ポリュペーモスの危険がある以上、誰かを巻き込むリスクもある。
だが、このままバスや鉄道を乗り継ぐのは厳しく、金銭的負担も大きい。
何より――
相手の申し出が、あまりに“都合が良すぎる”。
「えっと……一応お名前、伺ってもいいですか?」
「おっと、そうだったね」
男は口元を軽く持ち上げる。
「僕は片桐 アキラ……って呼んでくれたらいい」
「片桐……アキラ?」
「ちょっと道内を気ままにドライブしてるんだよ」
片桐アキラ――
偽名のようにも聞こえたが、映司はひとまず名乗り返した。
「俺は映司で、こっちは……ガラティア」
「決まりだね。じゃあ早速、車に乗ろうか」
片桐アキラと名乗る人物は、まるでこちらが断る隙を与えないほどスムーズに話を進める。
映司はガラティアと目を合わせ、結局彼の後ろについていくことにした。
ホテルの駐車場に止められていたのは、大きめの黒いSUV。
道内の雪道走行にも安心できる四駆だった。
「どうぞ乗って。冷えきった身体もこれであったまるよ」
アキラはトランクを開け、軽く荷物を整理して後部座席を広くする。
車内は暖房が心地良く効いており、ほんのり柑橘系のルームフレグランスが漂う。
エンジンをかけると、アキラは妙にノリのいいBGMを流し始めた。
「……これ、何の曲ですか?」
ガラティアがつぶやくと、アキラはルームミラー越しに彼女を見つめ、意味深に微笑んだ。
「ハハ、好きなんだ。ちょっと“神話”っぽい雰囲気があるだろう?」
映司はドキリとする。
(神話……?)
彼は一体、何者なのか――
アキラの存在が、一段と怪しく思えてきた。
日が傾き始めた頃、国道沿いの電光掲示板が目に入る。
《ホワイトアウト注意》
「こりゃあ酷いな……」
アキラが、フロントガラス越しに視界の悪化を確認する。
道北から道東にかけての地域は天気が急変しやすい。
吹雪がひとたび荒れ狂えば、視界はゼロに等しくなる。
まもなく、風が強まり、雪が舞い上がった。
車の周囲が一瞬で白く煙る。
前方の車も速度を落とし始め、アキラは慎重にハンドルを握り直した。
「一旦、近くの道の駅かなにかに避難したほうが良さそうだね」
そう言いかけた、その瞬間――
突如、前方から強烈なハイビームがこちらを照らした。
「うわっ! 危ない……!」
アキラがとっさにハンドルを切る。
だが、路面は凍結しており、タイヤが滑った。
車体が横っ滑りしながらも、なんとか接触を回避するが――
ガンッ!
ガードレールに車体が軽くぶつかった。
「っ……!」
後部座席で身をすくめる映司とガラティア。
幸い怪我はないが、バンパーが大きく凹んでいる。
対向車は、そのまま逃げるように走り去っていった。
アキラは舌打ちし、ハンドルを叩く。
「くそ……なんて運転しやがるんだ」
映司は息を整えながら、寒気とともに背中に嫌な感覚が走る。
(まさか……ポリュペーモス……?)
彼なら、常識を逸脱した方法で襲いかかる可能性がある。
この対向車は、ただの事故か? それとも、罠か?
アキラは車を路肩に寄せ、非常灯を点ける。
「ちょっと見てくるよ」
アキラはそう言い、外に出た。
吹雪で視界はほとんどゼロ。
映司とガラティアは車内に残り、アキラが戻るのを待つ。
しかし――
ガラティアが、低い声で囁いた。
「ねえ、映司……外に、誰かの気配がする」
映司の喉がごくりと鳴る。
窓の外は、猛吹雪で何も見えない。
だが――
かすかに、“影”が動いた気がした。
やがて、運転席側からアキラが戻ってくる。
「バンパーは曲がったけど、なんとか走れそうだ」
だが、彼の表情は険しかった。
「問題は……どうも誰かが、こっちに近づいてきてるぞ」
映司は、息を呑んだ。
車の赤いテールランプに照らされ、猛吹雪の中から大きなシルエットが浮かび上がる。
「ま、まさか……ポリュペーモス……?」
ガラティアの表情が青ざめ、体がこわばる。
「どうしてここまで……」
そのとき――
アキラが、不敵な笑みを浮かべた。
まるで、この瞬間を待っていたかのように。
彼はポケットから、小さな端末を取り出し、何かのボタンを押した。
車内のBGMが急に止み、代わりに妙な電子音が流れ始める。
「こうなると思っていたよ……フフ、やはり君たちは相当なトラブルを抱えているようだね」
「片桐さん……? 何を……?」
映司が戸惑っていると、アキラは目線を合わせる。
その瞳には、先ほどまでの軽妙さとは違う、底知れぬ威厳が宿っていた。
「僕は“片桐アキラ”って名乗ったけど……まあ、あまり気にしないでくれ」
アキラは愉快そうに肩をすくめる。
「大切なのは、今ここで“奴”に捕まらないことだろう?」
彼が再びボタンを押すと、車のスピーカーから不思議な音が流れ始めた。
幾重にも重なるような“多重の声”
低く唸るような響きと、高く澄んだコーラスが混じり合い、まるで耳が混乱するような不協和音。
すると――
猛吹雪の中のポリュペーモスが、足を止めた。
「……?」
首を傾げ、視線をあちこちに動かす。
まるで、目の前の車が消えたかのように彷徨い始める。
「まさか……車ごと姿を隠してるの……?」
ガラティアが息を呑む。
アキラはルームミラー越しにウインクした。
「〈幻惑(まやかし)の音律〉さ」
「ちょっとしたトリックだけど、感覚を狂わせるには十分だよ」
「相手の五感を混乱させれば、あんなゴリラみたいな男でも手玉に取れるってわけだ」
アキラは冷ややかに微笑み、そっとアクセルを踏む。
まるで、ギリシャ神話の“ヘルメス”のように――
敵を欺き、狡知で翻弄する。