消えた漁法・内湾

 

消えた伝統漁法


 東京湾・内湾で古くから操業されながら、伝統漁法の技術継承が途絶えた。漁具を製作する鍛冶職人もいなくなったうえ、水質悪化による魚族資源の大幅な減少や、干潟の埋め立てで既に消滅した漁がかなりある。だが、沖合底曳き漁などまだ細々と続けられている消滅寸前の漁もある。ノリ養殖の盛んな内湾漁業にあって、小職(こじょく)とされる極めてマイナーな漁は、春から秋にかけての裏作だった。ほとんどが干潟の埋め立てで消えた。干潟の漁(すなどり)の記念碑として、高度経済成長時代以前の1950年代に消えた漁法と1960年代前半ごろまで細々と続いた伝統漁法を古老の漁師たちから聞いて追慕した。

 

<エビ掻(か)き漁>


 江戸時代の漁具、漁法にも記載されていないクルマエビを採捕する珍しい漁法。夏から秋にかけての昼漁。干潮時の干潟で、底曳き網漁の網の入り口に取り付ける熊手状の桁(けた)で砂地を引っ掻く。クルマエビは干潟の砂地に潜んでいるのは、アサリの潮干狩りを経験した人なら知っている。アサリ取りの際に砂地をひっかくとクルマエビの稚魚が出てくることがあるからだ。桁は長さ50㌢程度の板に五寸釘のような爪を3㌢間隔に付けてあった。漁師は桁のひもを腰に巻き、地面を掻きながら歩く。グラウンドの地ならしに似た作業だ。
 干潟は下げ潮((引き潮、漁師はサゲショという)で干出するが、潮の退いた後でも水深数㌢ほどに海水の残った潮溜まりができる。この潮溜まりを「ウタリ」と言った。クルマエビは昼間、砂の中に潜っていて、ウタリには多くのエビがひそんでいた。桁はウタリを掻いた。掻いた後にエビが跳ね出ると手づかみで取った。昭和初期から漁業を始めた人によると、戦前、内湾にはクルマエビがわくほどいて、エビ掻き漁では体長5~10㌢のクルマエビが多く取れたという。だが、戦後間もなく漁船漁業が広く普及し、あまり効率の良くないエビ掻き漁はだれもやり手がないまま、消えてしまった。
経済的にだれもが機械船の大船を持つことができなかった時代、大船を所有しての漁船漁業は漁師の誇りだった。大船といっても2㌧前後の船だったが建造費が高く、不漁時でも2、3人の乗り子に払う資金がある漁家でしか持てなかった。
 干潟を歩いての漁は生業として成立しても、どことなくみすぼらしく、下に見られた。漁師言葉で「貝(カイ)」を訛って「ケ」という。さげすむといえば、アサリを取る漁師は下げすむような語感で「ケッコ漁師」と言われ、コバカにされた。大船を持てるようになると、干潟漁を止める漁師も多かった。干潟漁が廃(すた)れたのもこうした風潮が影響している。

引き網漁


台風など洪水状態の降雨直後、小河川の河口で大人2人が網の両端を持って袋網で海底を曳き、流れてくる小魚を採捕する。網の底は錘用の鉛が付けてある。干潮の時間帯に行う。網に入った小魚が逃げないぐらいの小さな網目で、後ろは袋状の作り。
 川から流れるゴミも混じって入るため、袋を引き上げたら採捕した小魚を家に持ち帰り、夜なべで家族総出でゴミ拾いをするのが手間。ハゼの幼魚など体長3~5㌢程度の小魚がほとんど。佃煮用に採捕し、つくだ煮屋に売る。
  労働がきつく、大人2人がかりで漁をしても手間賃にもならないため、昭和時代の初期に漁は姿を消した。戦後の高度経済成長時代に入ってこうした小魚を取る漁師は全くいなくなった。小魚の供給が止まって、つくだ煮屋は材料の小魚をどう調達しているのだろうか。
 茨城県の霞ケ浦では一部地域で小魚を採捕して佃煮加工する漁業者がいる。近くの土産物店などで販売している。琵琶湖でも採捕する漁の仕方が異なるが小鮎以外の小魚を取る漁があり、やはり自家で佃煮加工して土産物店や魚屋で販売している。

イカ流し網漁


 春5月、「スミイカ」とも言う「コウイカ」を採捕する網漁。体内に木の葉状の「フネ」と呼ばれる白い貝殻を持ち、背中の紋があることや捕獲すると黒いスミを吐き出すなど体やイカの特徴から「モンゴウイカ」「ツノイカ」「スミイカ」と呼んだ。
スミイカはイカ類では格段に食味が良く、値も張った。コウイカの好物はシバエビ、小さなクルマエビなどのエビ類。旬となる冬から産卵前の春は身に甘味が増す。
干出した干潟の沖合に繁茂するアマモや、長さが5㍍以上もあるオオモ、ワカメのメカブなどに卵を産み付ける。湾内の漁師は、春一番に雨を伴って吹く南風を「ドウゴシ」と言った。このドウゴシに誘われて、決まってコウイカが群れてやってきた。
藻場で採捕する網は帆船での「打瀬(うたせ)漁」にも使う網で、これらの海草の茂る場所を表層曳き、中層曳きをした。江戸時代には「藻流し漁」といわれた。
夜漁が中心だったが、太平洋戦争中の昭和18年ごろから終戦まで、灯火管制のためカーバイドのアセチレンガスに灯をともす漁火の明かりカンテラさえも禁止され、昼漁だけとなった。終戦直後、漁業従事者が急増して乱獲から魚族資源が減少。水質も悪化しだして数が減り、戦後間もなく漁は消滅した。埋め立てでコウイカが産卵する藻場は消失し、コウイカ資源の減少に拍車をかけた。
コウイカは「メヅキ」「見突き」と言われた「覗(のぞ)き漁」でも採捕された。覗き漁は「箱メガネ」で海中をのぞき、「ヘシ」と呼ぶヤスで魚介類を突いたり、刺したりして取る。「見突き漁」では、コウイカの採捕は技量を必要とした。春、アマモやオオモの藻場で産卵するコウイカは数匹でまとまっていることが多い。
 コウイカを突く時は、ヘシで突いたらすぐ持ち上げないのがコツ。コウイカはスミイカと言うように危険な状況に遭うと墨汁とそっくりな墨を吐き出す。ヘシで突かれたコウイカは墨を大量に吐き出し、その周りが黒く濁って近くにいる別のコウイカが逃げ出してしまう。このため、ベテラン漁師はコウイカを突いたらそのままヘシを海底まで下ろし、舟に積んである別のヘシを取り出し、近くにいるコウイカを突いて次々と採捕した。このため、漁師はいつも数本のヘシを用意していた。

刺し網漁


建網を漁具にした漁で魚種や漁場によって網を使い分けた。漁場は満潮時で水深3、4㍍になる砂地の干潟。満潮の前後に仕掛け、網目に引っ掛かった魚類を外して下げ潮になると網を引き揚げる。昼でも夜でも漁は行われた。表層に仕掛ける浮き刺し網と、網の下部を海底まで下ろす底刺し網があり、明治時代には魚種によって使い分ける網が17種類もあったという。だいたい一枚網が主流うだった。
網にはそれぞれ魚類名を付け、カレイ網などと呼んだ。主に値の張るクルマエビ、カレイ、セイゴやフッコ、マダイ、ワタリガニを狙った。雑魚としてボラ、マゴチ、コノシロ、イシガニが取れた。
昭和30年ごろ、網の材質として合成繊維クレモナ(ビニロン)
製の網が開発され、三枚網と同時に関西から東京湾にも導入された。これ以前は綿糸で編んだ一枚網だった。魚は目が効いて、障害物の網が仕掛けてあるのを容易に見破る。より細くほぼ透明な繊維のクレモナ網、しかも漁獲効率の高い三枚網を使うことで水揚げは大幅に増えた。三枚枚の普及で一枚網は使われなくなった。

三枚網は採捕する魚種によって丈(竹、高さ)や網の目合が異なった。カレイ網の丈で1・6㍍、クルマエビ、ワタリガニを取る網で約80㌢だった。網の上部に浮きの「アバ」、下部に鉛製の錘(おもり)「沈子」を付けてあった。網は反数で数え、魚種によって一反の長さが違った。仕掛ける時は大体、延長100~200㍍。網の両端を碇で固定し、竹竿を立てて小さな赤旗、白旗を掲げて目印にした。
網は汀線に並行して干潟に張った。魚類は上げ潮時、餌を求めて深場から浅場に向かって動き出す。網を仕掛けたら潮が下げ始めるまでそのまま放置するが、フッコやカレイを狙う時は魚を脅して追い込む場合もあった。
舟の上から櫂や長い竹竿で海面を勢いよく叩きつける。網を仕掛けた陸側の「タカ」から魚を網に追い込むように沖に向かって叩く。また、竹竿に缶詰の空き缶を数個まとめてぶら下げ、竹竿で海底を突いて空き缶をガラガラさせて動きの悪いカレイなどの底魚を追い込むこともした。ボラは脅かされると、網の上をジャンプして逃げた。マダイが掛かることはあまりなかったが、掛かるときは数十尾がまとまって取れた。
この空き缶で底を転がして追い込む漁は河川でも行われている。
網に掛かる魚類は平均して体長30㌢前後で、体長70㌢以上のススキやボラが最も大きく成長した「トド」など大物は滅多に取れなかった。煮物、焼き物にして食べてうまいのは体長30~40〇㌢の大きさの3歳魚が中心でで市場や魚屋では値が張った。ボラの型の小さな「イナ」やコノシロは多く掛かったが、二束三文の価格で買い叩かれた。
鮨ネタになるコノシロは小骨が多くて漁師の家でもほとんど食べなかった。江戸時代は「此(こ)の城」と語呂合わせから武家階級に好まれた。水揚げしたばかりのコノシロを炭火で焼くと、脂が乗ってマイワシやウルメイワシ、サンマ、メヒカリと同じようにうまい魚だった。漁が少ない場合、魚はほとんど自家消費され、毎日、カレイやセイゴの煮付け、茹(ゆ)でたクルマエビ、ワタリガニ、イシガニが食卓に上った。

手繰り網漁


「手繰(てぐ)り」「打瀬(うたせ)」「底曳き」とも引き網漁。小型漁船での底曳き、中層曳き網漁で、4月の彼岸過ぎから秋にかけての夜漁が主だった。網を手で引き揚げるので「手繰り」といわれ、舟長7~9九㍍の一㌧前後の小舟を使った。「テンマ」「ベカ」と呼ばれた小舟よりもやや大きく、舳先が高く、波切りもついて沖合漁に合った舟型で建造された。
昭和20年代ごろまで帆曳きだった。帆は舟の中央部分に張り、1、2枚帆で舟を横流しにして網を曳いた。風が凪ぐと網を曳けないので、舳(へ)先よりの「オモテ」と船尾の「艫(トモ)」の2丁櫨(ろ)で漕いだ。舟には兄弟、親子、親せきで2人が乗り込んでいた。
水深や縄の長さを測る単位として漁師はメートルではなく、「寸」(約3㌢)、「尺」(30・3㌢)、「尋」(ひろ、六尺で182㌢)を使った。手繰り網、打瀬網とも長さ20~40尋、魚を取り込む網口の幅は一尋半。網には5尋間隔で鉛の錘(おもり)を付けてあった。5尋置きに錘を付けたのは、水深と潮流の速さを測るためだった。網の材質は麻やシュロを糸状に編んで作った。戦後、ナイロンなど合成繊維の開発に伴って網はクレモナ(ビニロン)やナイロン網に代わった
漁場の慣行は江戸時代の漁場紛争から、漁村の地先漁業権にある海面は、大潮の干潮時にカシの木で作った長さ10㍍ほどの櫂(かい)を海底にまっすぐに入れ、櫂のTの字状の頭が水面に出る深さまでの範囲だった。「櫂立三尺」といわれ、この櫂は大船用で長さが3尺あった。
江戸時代からの慣行で、櫂立から陸側は各漁村集落専用の地先漁業権のある漁場とされた。ほかの漁村からの立ち入りは御法度だった。櫂立から沖合は内湾の漁業者なら自由に操業できる入会の海、沖合共同漁業権にある海で、引き網漁はここが漁場だった。
千葉県側の漁師は東京・大森、品川や神奈川・子安など対岸を「向こう地」と呼んだ。向こう地や船橋の漁師は3、4㌧もある大型の打瀬舟を持っていた。この大型の機械船は自動車用ディーゼルエンジンを搭載して船足が速いだけなく、大きな網を曳く馬力があった。「大手繰り」と呼ばれ、日和が良いと各地の沖合に進出した。
機械船でない船を使った大手繰りは網の入り口に海底を掻く熊手状の鉄製の桁(けた)「マンガ」を付けてあり、3、4枚帆で操業した。海底を曳く力を強くするため帆の数を多くした。大正時代半ばから昭和一〇年ごろにかけて内燃機関として「焼き玉エンジン」が導入された。この機船底曳きの普及で船は3~5㌧クラスに大型化した。戦後まもなく電気着火のエンジンとなり、昭和40年代に入って自動車用ジーゼルエンジンが搭載され、格段と船足が速くなった。帆掛けの打瀬、手繰りはそれでも大船を持てない漁師の間で昭和30年代前半まで続けられた。
帆舟での引き網は風頼みの漁。藻流し漁はアマモやオオモなど藻類が繁茂する場所の藻の表層で網を曳く。日並みによっては漁の多寡どころか遭難の恐れもあったので、漁師は天候や風向きには神経をとがらした。特に風は季節によって突風を伴う風も吹き荒れた。漁師は風や潮、海の匂い、雲の形状や動き、陸側の砂ぼこりの舞い具合など天候の気配に敏感だった。
風の呼称は各地でさまざまあるが、内湾の千葉県側では、「ミナミ」(南風)、「ナレ」(北風)、「ニシ」(西風)、「コチ」(東風)、「サガ」(北西風)などと言った。北西風のそよ風は「サガトジ」と呼び、東京方面から吹く風を「吉原風」と特別の呼称を付けていた。幕府公認の遊里「吉原」から渡ってくる風は、大げさに「湯の匂いがする」と言われた。
内湾の千葉県側の漁師たちはいつも西の空を見ていた。丹沢山系や丹沢山系の東端にある大山(阿夫利山、雨降山とも呼んだ)、富士山の状況を様子見した。大山に雲がかかると雨模様と言われた。
神奈川県川崎からぐるっと時計回りの右回りに千葉県富津岬まで続く干潟の沖合は水深5尋半の場所が続き、ここから沖が急に深くなった。この深場に落ち込む段差のある場所を「ガンコ」と呼んだ。湾央に南北に走る水深9尋の碓は「中ノ瀬」と呼ばれた。
底曳き漁場は水深4、5尋の付近と10~一12の付近。オオモが茂っている場所があって、この藻場を「中のモ」「沖のモ」などと呼んで操業ポイントの目安にした。
大風が吹き荒れた後、藻場の辺りは網に藻くずが大量に入り、漁にならなかった。ガンコの場所は魚が多くいたが、ここにはゴミがたまっていて、網に大量のゴミが入った。
漁の盛期は7月。夕方、出港して翌朝に引き上げる「一晩漁」。網を入れた場所は「モトヤマ」と呼ばれた。一回の網入れは30分から1時間程度。魚が多く入る場所は何度も曳いた。網を速く流すと底から浮き上がるため、網口の辺りに「ゴロンボ」呼ぶ鉛の錘(おもり)を付けて曳いた。
多摩川、江戸川、養老川、小櫃川など比較的大きな河川が注ぐ沖合の海底は泥地のゆるゆる状態の「ヌタ場」だった。ここを曳く時は魚の入る網の入り口にワラで作った「ヨセ」を付けて泥が入るのを防いだ。
引き網漁で狙ったのはクルマエビ。沖合のクルマエビは体長20㌢ほどの大型で値が張った。網にはワタリガニ、イシガニ、シャコ、カレイ類、ヒラメなどの底魚のほかススキが入った。
ヌタ場にはシャコがわき返るようにいた。ヌタ場のシャコはあまりに生息数が多いのか、身が詰まっていなかった。固い砂地で取れたシャコは身がぎっしり詰まり、身のなかにある「カツオブシ」も大きくて高値が付いた。
漁師は昔から、シャコ、バイガイを食べるのを敬遠した。海底に沈んだ死人「土左衛門」を引き揚げる時、シャコとバイガイがごっそりたかっていたため、気味悪がって食べなかった。漁村特有の禁忌の一つだった。
漁家は地先漁業権の継承もあって長子相続を原則にした。長男が15歳になるまで下痢や食中毒を起こす心配のある刺身などの生ものは食べさせず、もちろんシャコもバイガイも箸をつけさせることはなかった。
そればかりか、「目が悪くなる」といって子供が本を読むことさえ嫌う親もいた。目の効くことが漁師の第一条件だった。日常の漁具の点検整備はもちろん、山など陸の高いものを目印に漁場や海上での漁船の位置を知る「山立て」「山当て」でも、餌を求めて舞う海鳥を見付けたり、見突き漁で海底を覗くにしても、目効きが肝心だったからだ。
湾内では地先海面の埋め立てに伴って沖合漁業権を放棄したところもあり、沖合底曳き網漁の操業はごくなく少なくなった。現在、内湾全体でも実際に操業している漁家は200件もないとみられている。沖合漁業の消滅に伴う漁業補償を目当てに大船を持っている人もいるという。
魚の水揚げよりも人を乗せた方が確実な収入になり、釣り船稼業に転向した漁師も多くいる。引き網の操業を続ける漁師は腕が良く、魚を取って稼ぐことを誇りにする漁師だけとなった。腕の良い漁師たちは、釣り舟稼業に転向した漁師や船頭を「魚を取る技量がないから」とコバカにした。

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