消えた魚、生垣

アオギスのいた海


 かなり強い引きがあった。澪(みお)に向かって斜めに立てかけた竿が砂浜に落ちて澪の方に引っ張られていた。リールを巻いて揚がってきたのは体長25㌢程度のカマスようで初めて見た魚だった。魚体は少し青みがかっていた。
 えらぶたを動かしてはいたが、もう絶え絶えで、すぐに死んでしまった。後で振り返ると、「アオギス」だった。いるとは聞いたが、干潟のきれいな砂地の場所にしか生息しないと思っていた。澪は幅300㍍、深さ10㍍くらい。排水量300㌧級の大型船が航行する澪に、「アオギスがいる」とは想像できなかったので、まさか釣れるとは思わなかった。
 小学校高学年のころ、1950年代の後半ごろだったと思う。釣りが好きで春から秋にかけて天気が良い日は、一人か近所の友達と一緒にほぼ海や川に釣りに出掛けた。エサは通りかかりの河口で、持参した園芸用ミニスコップで泥を掘り、ゴカイ類を捕った。
 漁師の父親は釣り竿をみると、二つに折って燃やしてしまった。街の釣具店で長さ4,5㍍の1本竿だと安いので30円ぐらい、高いので70円ぐらいしていた。すぐに安い竿を買ってくると、見つけて折られてしまった。釣りがきらいというのではなく、「釣りなんかで飯が食えるか」というだけだった。20尾、30尾程度釣ったところで幾らになるのか、大した稼ぎにはならないというのが理由だった。子どもが海や干潟、漁具、魚、海の気象、天候の見方など海で生きていくうえで必要なことに関心を持つことは一向に構わなかったが、釣りだけはなぜか許しがたかったのだと思う。
 澪での釣りは安物の一本竿に太鼓型のリールをつけただけの釣り具だった。何の工夫もない、セイゴ針にゴカイを付けただけの投げ釣り。引き潮だったせいか一匹も釣れなかった。晴天で強い日差しがあり、汗ばむような陽気だった。子供だったので砂遊びをした。砂浜を掘って水路を設けたり、丘を築いたりして遊んでいた。
 置き竿してから1時間ぐらい経ったように思う。竿が倒れて、澪側に引きずられていた。大船の航行による引き波で倒れたとばかり思っていた。何も期待はしなかった。だから、リールを巻いて強い引きがあったので驚いた。揚げるとすぐに死んだので、針がかりしてだいぶ時間が経っていたのだと思う。後にも先にも、この魚を見たのはこれ一度きりだった。
 この時期、東京湾でもアオギスを見ることはなかった。漁師たちも「近ごろ、さっぱりアオギスは見たことが無い」と話していた。東京湾で多く生息していたのは昭和時代の初めごろまでらしい。天ぷらなどの食材になる普通のシロキスとは違う。魚体が大きい。食べてうまい魚ではないという。「干潟漁の生き証人になるだろうから、アオギスはこういう魚だってことを見せておこう」。こんな海神の思し召しだったのではないかと思っている。
 東京湾・内湾の千葉県側はアオギスの釣り場で有名だった。1950年代ごろまで、長浦あたりの干潟には初夏からアオギス釣り用の脚立がいくつも並んでいた。海の近くを走る房総西線(現在の内房線)の列車の車窓からも脚立は見られた。潮が上がるころに脚立に上り、潮が満ちるのを待つ。満ちてきたら竿を投げて釣る。脚立は1960年代後半まで干潟に在ったたが、釣り人を見たことはなく、徐々に撤去された。アオギスのいた海がどこも海面の埋め立てが進み70年代に入るとほとんどの干潟は消えてしまった。アオギスは「幻の魚」となった。
 2005(平成17)年3月、水産庁は「アオギスが生息できる東京湾再生に向けた報告書案への意見募集の結果」を募集した。まとめたのは「豊かな東京湾再生検討委員会」の分科会「アオギス再生特別員会」。この前年の2004(平成16)年11月に開かれた第25回全国豊かな海づくり大会(神奈川大会)で、東京湾環境再生のシンボルとしてアオギスの放流を提案し、アオギスが生息できる生態系の再生に取り組みことが提案された。
30年後までに葛西沖と三番瀬を結ぶ海域や盤洲干潟周辺で生態系の再生を行い、100年後までに東京湾にそそぐ集水域から東京湾までの環境再生計画を国家的な課題として取り組むというものだった。当然、賛否両論が寄せられた。再生に異論はないが、実現可能性はあるのかということだ。東京港沖合ではごみ捨てによる埋め立て、人工島の建設が続き、内湾そのものが狭くなって水路化し、このままずっと続くとみられている。赤潮、青潮が毎年、継続的に発生している。こちらの方がまず先に解決すべき課題ではないのかと思う。
 もっといえば、農林水産省の構造改善局が長崎県などを推し進めた有明海・諫早湾の埋め立て干拓問題で諫早湾をギロチンで締め切ることに何の反対論も提起しなかった水産庁に何ができるかという思いが強くある。
 昭和天皇は有明海の干潟が好きらしく、在位中に佐賀市を4回もご訪問された。2回目の行幸となった1961(昭和61)年4月21日、国営有明干拓地を視察、干拓地を見渡して「めづらしき海蝸牛(うみまひまひ)も海茸(うみたけ)もほろびゆく日のなかれといのる」と詠んだ。おことば書き(説明文)には「有明海の干拓を憂へて」となっていた。
 天皇の歌で「祈る」は禁句とされている。九州に住む自然保護運動家の山下弘文氏は「干拓事業の進む有明海の固有の生物の絶滅を憂うる心情を詠った」と解説した。天皇が「有明海には希少な固有種がいるから大事にしなければならない」という心情の和歌を詠んだにも関わらす、農水省は埋め立て事業を促進した。積極的に促進した長崎県の金子知事は後に衆院議員となり令和時代に入って菅内閣で農水大臣を務めた。こんな体たらく、昭和天皇のお言葉も理解しようとしない、こんな体たらくは天皇親政の明治時代から昭和時代の第二次世界大戦の終戦時までは国賊同様の扱いをされると思う。こんなふがいない農水省がなにができるかという思いが強くある。
 河川が注ぐ集水域は小櫃川河口域の盤洲干潟以外、どの河川の河口域の干潟もほとんど埋めてられてしまった。個人的な考えだが、その盤洲干潟は周辺にあった干潟と比べてそれほど、いろいろな魚が取れるという漁業資源が豊かな漁場ではないのだ。私の知る限り、比較的海がきれいで干潟が昔ながらに残るのは、かろうじて埋め立てから免れた木更津市の陸上自衛隊基地(木更津駐屯地)の沖合、河口の南側にある久津間海岸、基地に隣接する江川海岸、埋め立てから免れた富津市の富津岬の内湾側の狭い場所3カ所しかない。三番瀬なんて、全く潮が引いて海面がなくなる干潟ではない。やはり干潟は引き潮時に干出しないと干潟とはいえないと思う。
だから、「アオギス再生委員会」の提言は是としても、まず再生の場所選びからつまづいていると思う。再生に向けて何もやらないより改善に向けてやった方がよりましだから、頑張ってほしいというぐらいの感想だ。

消えたトウジの生垣


 
東京湾の千葉県側、特に内房の木更津市を中心とした西上総地域の半農半漁村集落の家々の多くは主にマテバシイ(俗称トウジ)の生垣を持っていた。トウジのほかにシラカシなどカシ類を植栽する家もあった。トウジは農漁業に必要な資材として利用した。
農業は稲作が主。稲刈りをした後、穂について稲束を天日干しした。このハザカケの脚を作るのに使った。トウジの太さ3,4㌢を長さ3㍍ほどにして、トウジを✖状にして✖印の箇所を荒縄できつく縛った。ハザカケの両端はスギ丸太を使った、このハザカケに孟宗竹を渡した。この孟宗竹を支えるためにトウジの支えを作った。
また、畑にはナスなど風邪に弱い作物やサヤインゲンなどツル状に伸びる野菜のためにトウジの柵も設けた。風よけや柵には細い枝で十分だった。
漁業用には3種類の利用法があった、一つは舟だまりの風波よけ。
舟だまりの周りを囲むように高さ3,4㍍の囲い柵を作った。柵には杉丸太を使い、深く埋め込んで支柱にした。この間に孟宗竹や葉のついたままのトウジを埋め込んだ。この柵の中に小舟を係留した。
二つ目はノリの支柱柵を作るのに柵の支柱用に使った。支柱柵に発展する以前、ノリは竹笹やトウジの細い枝で作ったヒビで自然繁殖した海苔を付けた。この名残が支柱柵にも応用された。
三つ目はトウジの枝を、通称シッパ、柴漬け漁用に用いた。葉が付いたまま枝を伐採して、笹竹やスダジイの枝と共に荒縄で根元部分をきつく縛り、干潟の澪(みお)筋に仕掛けた。晩春から初秋にかけての漁で、このシッパにウナギやイシガニ、ギンポなどが入った。主な漁獲はシバエビ。シバエビは豊富に漁獲された。
またトウジの屋敷の周りに植栽して家を風や火事の延焼から守る生垣にした。トウジは伐採しても主幹を残しておけば、主幹の根本から毎年、新芽が出て3~5年もすると太さ3~5㌢程度に生育した。この育ちの良さが重宝された。
干潟の埋め立てで漁業を廃業する漁家が相次ぎ、屋敷回りの水田も埋め立て造成され、漁業・農業用の用途がなくなって、トウジの屋敷林はほとんどの集落で姿を消した。古材のトウジは焚火用に利用した。
トウジの屋敷林が唯一残っているのは小櫃川下流域の木更津市金田地区、久津間、江川地区にところどころにあるだけ。川崎市方面から東京湾横断道路を渡ると、料金所を過ぎてすぎ右手に古い集落がある。江戸時代からの幅員の狭い道路沿いに民家があり、この民家の屋敷林にトウジが残るところもある。西上総地域の原風景として文化財的な価値があるが、代替わりとともにトウジを伐採する家々が多くなった。
屋敷林といえば、富山県砺波地域の農村集落にスギの屋敷林がある。スギだけでなく、ヒノキを植栽する家もある。防雪、防風だけでなく、スギやヒノキが150年、200年もすると太く大きく育って建築用材となった。
トウジ、カシ類は建築用材に不向きな雑木扱い。内湾・西上総地域のトウジは雑木でも農漁業用の資材に使われて残されてきた。

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