「世間」に縛られる日本人
さて、今回は元のテーマであった紀行文に戻しつつ、執筆していきたいと思います。
今まで新宿の歌舞伎町、札幌のすすきの、大阪の西成など、様々な人が交わる場所に幾たびも足を運びました。その中で、様々な人に出会い、様々な考え方があることを肌で実感しました。我々が想像している以上に、彼らは多様な考え方を持っており、その中で「自分らしく」生きているのです。
「幸せ」であるために必要な要素は何か。
こう聞かれたとき、ある人は「お金」と答えるでしょう。そして、おそらく、そう少なくない割合の人が、「世間から認められること」と答えるのではないでしょうか。
上記の答え合わせをしましょう。「お金」があればあるほど、選択肢が広がるので、幸せになれる「確率が上がります」が、あくまで確率が上がるだけですので絶対的な正解ではありません。チャンスをものにできない人は、お金がいくらあっても無意味です。むしろ、お金を手にしたうえで確実に道を切り開ける力のほうが重要です。
そして、そう少なくない割合の人「世間から認められること」を幸せだと感じますが、そもそも「世間」とは何でしょうか。定義を調べると、「人が集まり生活している場。自分がそこで日常生活を送っている社会。」とあります。わかりやすく言うなら、「自分が選んだ集団に所属する自分以外の他の人々」のことです。この規模は、実際に所属する集団や解釈によって変わります。例えば小さい規模でいうなら「家族」とかも該当しますし、大規模になると「日本」という国も該当します。なので、上記の要素を言い換えると、「自分が選んだ規模の集団に認められたい」ということになります。なので、家族から認められたい人もいれば、会社で認められたい人、日本中から認められたい人もいるわけです。
ここで、ポイントなのは、「自分で選んだ」ということです。どの集団に属するかは、他人がどうこう言っても、圧力がかかっても、最終的には自分が決定するわけです。例えば、学校に行くのも、会社に行くのも、他人が選んだ道ではなく、「自分で選んだこと」なのです。
昔、「世間から認められることが生きがいです!」という人がいたので、「世間から認められること自体が目的なんですか?」と聞くと、「違います。」と答えが返ってきて、「では、あなたは何がやりたいんですか?」と聞くと、言葉に詰まってしまいました。上記の例でいうと、「認められること自体」を目的にしているならまだ成立しますが、「世間」という実体のない空虚なものを追い求め続けた結果、自己を見失うという逆説的な結果を招いているのです。
例えば、学校が嫌なら休めばいい、会社が嫌なら転職すればいい、日本に住みたくないなら海外に住めばいいなど、「自分は選べる側である」と自覚することが、何よりの「幸せ」の第一歩です。そういう意味では、「自分らしく」生きている彼らは、実はとても幸せなのではないでしょうか。