失ったという事実と向き合う
最近ある人の記事を読んだ時に書いてあった言葉がある。
「人生とは失うことの連続だ」
このセリフを読んだとき、
そんな悲しいこと言うなよ….
と思ったがよくよく冷静に考えてみれば確かにと思うこともある。
時間、記憶、大切な人。
そしてそれは年齢を重ねれば重ねるほどそうだと言える気がする。
年をとることでどんどん死に近づいているし、記憶もどんどんなくなっていく。体力もどんどん落ちていく。そして家族や友人、自分にとって大切な人も年齢を重ねれば重ねるほど失っていく。
一見こうみるとすごく悲観的なものに感じる。
だけどこれって自分のおかげでもあり、自分の責任だとも思う。
時間は「寿命」という概念で考えれば1歳の人と100歳の人だったら100歳の人の方が寿命は短い。それはその人がそれだけ生きたからこそ残りの時間を失っていく。
記憶だって自分がいろいろな知識を学び、経験を得たことで身についたものである。それが時間が経つにつれていずれ失われてしまう。
大切な人だって自分が出会う人が増えれば増えるほど失う人は増えていく。
私たちは「何かを得るから何かを失う」んだと思う。
じゃあ果たして、失うことは悲しいのだろうか。
確かに悲しさはある。絶対に。だってあったものがなくなるのだから。
でも失わないことを選択する。つまりそれは、「得るものもない」ということになる。
長生きをするから寿命が短くなるわけで、知っていた過去があるから忘れる未来があるわけで、出会いがあるから別れがある。
そういうものなのだろう。
失わないために何も得ない道をとるか、失ってでも多くのものを得る道をとるか。その2択に迫られている。あなたならどちらを選ぶだろうか。
今のわたしなら絶対に後者をとる。
たとえ失うものがあったとしても「今」を楽しむことができるのは多くのものを得ている時間だから。
失ってもそこで人生は終わらない。
失ったまま時間は続いていく。
だから私たちは失うことに対して強くなっていかなければならない。
失うことと向き合っていかなければならない。
それは1つ失ったからといってすべてを失うような選択をするのではない。
1つ失ったならその失ったものに想いを寄せながらもより多くのものを得ることで補っていくしかない。
そして「失うことに悲しさを感じられるだけのものを持っていた」という事実を自分自身誇りに持てばいい。
きっとまだまだ自分にとっては人生というのは序章で、今後ますます失っていくものが増えていくかもしれない。
失うことの連続になるだろうけど、そこから目を背けずに向き合い、強く進んでいきたい。
そんな風に記事をを読んで思った。