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組曲Ⅲ 敗残の秋3

 二十人も客が入れば一杯になるような狭い店だった。一番後ろの席といっても、ステージとの距離はたかが知れたものだ。突然客席に現れた緒方に気づいたドラマーは、驚きに目を丸くしながらドラムを叩き続けた。やがて演奏が終わり、驚いた顔のまま、そのドラマーが緒方の席へとゆっくりと近づいてきた。
「あの・・・ご無沙汰しています・・・」
「ああ、やっぱり吉開だよね・・・」
 今、目の前にいる吉開という名のドラマー、ずいぶんと昔の事だが緒方と数年、活動を共にした事があった。緒方よりも一回りも若い吉開は、二人が初めて出会った当時、まだ学生だった。学校の名前は忘れてしまったが、どこか毛並みの良い大学のジャズサークルに所属していた吉開は、ほとんど授業にも出る事なく、プロの真似事をしながら、ふらふらと色んなバンドを渡り歩いていた。その頃緒方が、誰彼構わず語っていた青臭い音楽論は、生真面目で世間知らずな学生を惹きつけるには充分だったのだろう、すっかり緒方の音楽観に傾倒してしまった吉開は、まるで弟子入りでもしたかのようにステージを共にし続けたのだったが、ある日、二人の関係はふっつりと切れてしまった。それは緒方が吉開の前から、いや、その時住んでいた街からふっと姿を消してしまったからだった。それから十数年、二人は一度も顔を合わせる事がなかった。

「今、どこで、どうしているのですか?」いささか複雑な表情を浮かべた吉開が訊く。
「どうもこうも、相変わらずさ。どこかへ行くたび、そこで揉め事を起こしてさ・・・」
 ここ一年ほどはサキソフォーンに触れる事もなく、山奥の自動車工場で働いていたのだと、自分を蔑むように緒方は嗤った。その言葉を聞いた吉開は、しばらく無言で考え込んだ後、おずおずと切り出す。
「僕の方は、こうしてフリーで演奏して回る事にだんだん疲れてきて・・・落ち着ける場所が欲しいなと・・・実は、女房と一緒に東京で小さな音楽教室を開いたばかりなのですが・・・」いつの間にか結婚までしていた吉開は、ドラムを中心とした音楽教室を経営していると言う。奥さんもそこでピアノを教えているらしかった。
「それで、もし良かったら・・・緒方さんもそこで生徒を取って、サックスを教えてみませんか」
 目の前に天から蜘蛛の糸がすっと降りてきた、まさにそんな瞬間だった。それまで考えた事もなかった。この自分が音楽教室で誰かにサキソフォーンを教える?だが、しばらく考えるうちに、静かな嬉しさが込み上げてきたのだった。もうすっかり疲れ果てていた。これから、またさ迷うように方々を回り、そこで出会ういろんな音楽家たちと衝突を繰り返しながら演奏をしている自分の姿を思い浮かべる事など到底できなかったのだ。ひとところに落ち着き、そこで静かにサキソフォーンを教える、ああ、それがとても尊い事のように思えた。それから数か月後、緒方は東京の私鉄沿線にある小さな音楽教室、もちろん面倒見のいい吉開という男が経営する教室、そこで講師として働き始めたのだった。

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