組曲Ⅲ 敗残の秋2
いつの間にか四十歳に手が届きかけていた。相変わらず周囲の人間と衝突を繰り返す傲慢で偏屈な男をステージに上げてくれる店は、東京周辺にはほとんどなくなっていた。東京での活動を諦めた緒方は、細々とした希望を胸に、数少ない知人を頼って関西へと流れ着いた。自分の事を知る者のいない街で、最初は借りてきた猫のように大人しく振る舞い続けていた緒方だが、もちろん持ち前の偏屈さを曝け出すのは時間の問題だった。大阪のとある街のジャズ喫茶、そのステージの上で、本番中であるにもかかわらず、共演者たちと喧嘩を始め、挙句の果てに止めに入った客にまで罵声を浴びせ・・・いや、それぐらいならまだ良かった。事もあろうにその客を蹴り飛ばし、たちまち店主から出入り禁止を言い渡されてしまったのだった。その事件は瞬く間に広がり、緒方は希望を持って訪れた新天地でもすっかり干されてしまった。
特にやる事もなく、馴染みのない街ですっかり暇を持て余した緒方は、宿にしていたカプセルホテルのロビーで読んだ新聞の朝刊に、期間工募集の広告を見つけ、そのまま衝動的に応募してしまった。もうその頃の緒方は、音楽の仕事に行き詰まりを感じていたのだった。いや、単にもうすべての事が、どうでもよくなっていただけなのかもしれない。
世の中はバブル景気に浮かれていて、どこも人手が足りなかった。すぐに採用が決まり、そのまま送迎用のマイクロバスに押し込まれ、連れていかれた山奥の自動車組み立て工場で一年ほど働いたが、山奥ではほとんど金を使う機会もなく、ある程度のまとまった金を手に山を降りた。何の娯楽もない山奥の工場で、心を空っぽにしたまま、あたかも暇潰しのように残業や休日出勤を繰り返し、おまけに契約期間満期終了手当などという有難い報奨金まで貰った緒方は、手にしたばかりの一万円札の束を、まるで博打打ちのように縦に二つ折りにして、裸のまま上着の内ポケットに無造作に差し込む。まさに使い果たす気満々だった。山を降りる送迎バスに揺られ、たまたま降ろされた神戸の街で、山奥の工場で稼いだ金を振り撒くように飲み歩いた。
何の当てもなかった。神戸の街にしばらく居続けるつもりで三宮のアーケードの裏手に、長期滞在歓迎と書いた看板を出している安宿を見つけ、そこに部屋を借りた。ただただ疲れていた。それが何故だかわからない、ふと気がつくと畳の上に寝転んだまま涙を流していた。ありとあらゆる事に対して意欲を失くしていた緒方は、遅い午後に目を覚ますと、そのまま部屋で酒を飲み始め、日が暮れる頃にようやく外へ出ると、ふらふらと街をさ迷う。何となく心惹かれる佇まいの店を見つけると、その店の暖簾をくぐり、カウンターにへばりつくようにだらだらと飲み続け、長々と居座る見知らぬ酔っ払いに嫌気が差した店主から退店を告げられ、とぼとぼと店を後にする、その繰り返しだった。
まるで弱法師のようだった。人の影が輪郭を失い始める頃、夕闇に紛れるように街にさ迷い出る。ある晩、アーケード裏の暗がりに立っていた見知らぬ女が「ねえ、お兄さん」と声を掛けてきた。黙って通り過ぎようとする緒方の二の腕に、すっと絡めてきたその女の手を荒々しく振りほどいた。女が背後で聞えよがしに舌打ちをする。もう何もかもがどうでもよかった。「うん、もうどうでもいいんだ」とそう嘯く緒方の耳に、乾いた夜風に溶け込んだジャズの音がどこからともなく忍び込んできた。微かに胸の奥が疼く。無意識に足が音の方に向く。気がつくと古びたジャズ喫茶の前に立っていた。ライブの真最中なのだろう、店の中から分厚い扉越しに激しいドラムの音が聴こえてくる。
吸い込まれるように店に入ると、一番後ろの席に重い荷物でも投げ出すように、どさりと音を立てて座った。ずいぶんと音楽というものから遠く離れてしまっていた気がしていた。それなのに音を耳にすると、引き摺られるように音の方に歩いてゆく。まるで別れた女をいつまでも忘れる事ができずにいる未練がましい男のように自分を思い、くすりと笑った。そんな緒方の乾いた心にじわじわと音が染み込んでくる。胸の奥で眠り込んでいる何かが、ざわざわと蠢き始める気がした。すっかり回った酔いに薄く目を開けながらステージを眺める緒方の目に、記憶を擽る顔がぼんやりと映っている。夢かと思ったが、そうではなかった。ステージ上で激しいリフを繰り返しているドラマー、確かにその顔には見覚えがあった。いや、そのドラマーが打ち出すリズムの癖もはっきりと記憶にある。そうだ、随分と昔の事だ。確かに緒方はそのドラマーとしばらくの間、ステージを共にしていた。
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