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組曲Ⅳ~冬の日のおとぎ話7

 向かいに座って、さあ、言いたい事があれば何でもどうぞと、にこやかな笑顔を見せる精神科の医師に向かい私は今、自分が首までもどっぷりと浸かり込んでいる苦境について、そのすべてをぶちまけようとした。いや、すべてをぶちまけるには口が一つじゃあ足りなかった。私の腹の中に巣食っている苦しみが、一斉に出口を求めて私の小さな口に向かって押し寄せたんだ。そいつらをまとめて通してやるには喉だって細すぎた。慌てて吞み込まれたでかい握り飯のように、私の訴えが喉のあたりに引っ掛かり、痞え、そこでじたばたと暴れた。目を白黒させて口から泡を噴き出さんばかりに悶えている私に向かって、医師は何とか落ち着かせようと優しく語りかけてくるが、果たして私には医師の言葉がさっぱり吞み込めなかった。いや、もちろんそれはお医者様のせいなんかじゃないさ。私のせいだ。なにしろその時の私は、他人の言葉はもちろん、自分自身の口から転がり出てくる言葉の意味さえも、さっぱり分からなくなっていたんだ。

 私は恐ろしく辛抱強い医師に向かってぐにゃぐにゃと喋り続けた。まったく意味の通らない事を、思いつくままに、そんな言葉を恥ずかし気もなく垂れ流し続ける自分自身にうんざりしながら。さて、この頓珍漢な患者をどう扱えばいいのか、さっぱりわからなかったんだろうね、頭を抱えた医師はともかく薬を出してくれた。病院の隣にある小さな薬局で受け取った薬、そいつは「リリタン」というんだ。可愛らしいお名前さ。ああ、でも甘く見ちゃあいけない。「名前は可愛いが、効き目は凄い」ってやつだ。飲んだ瞬間、すべてが変わる。いきなり目の前が薔薇色に。あれ?いまシャキーンってな音がしなかったかい?うん、それは私の背筋が伸びる音さ。一粒三百メートル?いやいや、三千メートルはいけるね。

 まったく薬ってやつは大したもんだ。実によく効いた。その日のうちに、いやいや、飲んだ瞬間に、病気のやつがたちまちどこかに吹っ飛んでしまった。おい、誰が病気だって?えっ?この私が?そもそも病気って何の事?さあ、後はその繰り返しだ。そうして、うん、あっという間さ、貴方無しではいられないなんて事になるのに。私は薬に、この白い小さな錠剤に縋りついた。さあ、これからの私はあなたと「込み」で生きていきます。

 だがこの薬ってやつ、効き目が切れると大変な事になった。特に朝が酷かった。起き抜けってやつがさ。二日酔い、その飛び切り凄いやつ、質が悪いやつ、生きる希望をすら揺るがせてしまそうなやつ、そんなやつが私の枕元に向かって一斉に押しかけてくるんだ。並みの二日酔い百個分。全員がリコーダー、大太鼓、小太鼓、シンバル、ベルリラ、トロンボーン・・・思い思いの楽器を手に、その楽器を大音声で掻き鳴らしながら、十列縦隊、さあ、二日酔い将軍の大パレードだ。

 体が重い。夢の中でこの私は、一体どれほどの過酷な運動をこなしてきたんだ?まるでプールから這い上がってきたみたいだ。しかもそのプールの中に溜まっているもの、そいつはただの水じゃあないな。水なんかよりもはるかに粘っこいやつ。タール?スライム?鳥餅?ネルネルネルネ?ともかくその粘っこい液体の中、私は一体何キロの距離を泳いだんだ?八キロ?十キロ?五十キロ?ドーヴァー海峡でも渡ったってのかい?

 お医者様は気前が良かった。こちらが欲しがるだけ、いくらでも薬を出して下さった。束にして。「せえのおどん、さらに倍!」おお、何たる太っ腹。さあ、太っ腹でいられなくなったのは私の方さ。薬の量が増えるにつれ、日に日に私は痩せ細っていった。

 私の中から私がいなくなってゆく。私ってやつがどんどん薄まってゆくんだ。ありとあらゆる事に対して、私はもう何の確信も持てなくなっていた。そんな私が幻覚とかいうやつに出くわすのに、さほど時間は掛からなかった。ある日の夕暮れの街の中でカブトガニの大群に襲われた。家路へと向かう人々でごった返す、夕日に炙り出された影絵のような街、その街でカブトガニどもは上手い具合に道行く人々を避け、私だけに向かって押し寄せてくるんだ。また別の日にはスーパーマーケットの通路、そこを百匹のイノシシが駆け回っていた。「どいた、どいたあ、イノシシ様のお通りだあ」ってなもんさ。これまた別の日、道の向こうから友人がこちらに向かって手を振っている。それなのに私を呼ぶその知人の声は、私の背後に聳え立つビルの一室、開け放たれた窓の中から聴こえてくるんだ・・・。私はひたすら怯えた。怖かった。もう壁を伝わなければ道を歩く事もできなかった。この頃から少しずつ、記憶ってものが抜け落ち始めていた。記憶、そいつが私の頭からぽろりぽろりと零れ落ちてゆくんだ。記憶の欠落、ああ、それこそが恐怖の最たるものさ。見た夢を忘れてしまう事とは訳が違う。現実を忘れるんだ。私はその時、確かに何かをしていたはずなのに、そうだ、私は一体何をしていたのだろう?

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