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組曲Ⅰ 修羅の春14

 ふいに音が途切れた。目の前で繰り広げられていた過酷な恍惚はふと途絶え、突然訪れた静寂に、そこに居合わせた者はただ呆けたような顔であたりを見回し、その中の一人が突然夢から放り出されたかのように我に帰り、突然拍手を始めた。誰もがその音に導かれ、ゆっくりとだが拍手の波が広がってゆく。次第に強くなってゆく拍手が止みそうにもない中、Оはカウンターに置かれたサキソフォーンのケースに歩み寄ると、鳴り止まない拍手に少し戸惑いながら楽器を片付け始めた。ようやく拍手がまばらになり、消えてしまった頃、片付けを終えたОはカウンターに置きっぱなしにしていたグラスに入ったウイスキーを一気に飲み干し、「お代わりは?」と手振りで訊ねるマスターに向かって静かに首を横に振り、初めてこの店を訪れた夜のように真樹に向かって「ありがとう」と、マスターには「お騒がせしました」と頭を下げ、春彦には親しみの籠った笑顔を向け、それからそこに居合わせた全員に向かって深く頭を下げ、それから一度も振り返る事なくカウベルの音を静かに鳴らしながら店の外へと消えた。誰もが何か得体のしれないものに化かされたとでもいうように唖然とした顔をしているなか、真樹が突然立ち上がる。

「ごめん、私あの人にどうしても訊きたい事があるから、ちょっと行ってくるね」

 そう言うと自分のバッグを掴み、春彦には「先に帰っていて」と目配せを送ると、Оの後を追って店を飛び出していった。

 一瞬の静寂に続いて誰かが溜息を漏らすように、今しがた自分らが目にしたばかりのセッションについてぼそぼそと喋り始めた。喋るうちに次第に気持ちが昂ってゆく。誰もが誰かの声に被さるように割って入り、自分の心に傷のように刻まれた感動について語ろうとした。そんな中、誰よりも興奮しているのはもちろん春彦だった。ほんの数日前に真樹やマスターに話したОとの出会い。誰もいない城跡公園で聴いた演奏。その数時間後の居酒屋での偶然の再会。それらの出来事に色をつけて大袈裟に、少しでもОと自分の出会いがドラマチックになるようにと美辞麗句を費やした。熱を帯びた舌の動きが痺れるように止まらない。Оはサキソフォーンを使って海までをも自在に操るのだと、もしОがそこに居合わせたら赤面するか、噴き出してしまうだろう、そんな大げさな話を真顔で繰り返すのだった。

 

 誰もが飲み疲れ、言葉も途切れがちになり、いつの間にかテーブルに突っ伏したまま眠る者までが現れた頃には、すっかり朝が近くなっていた。真樹は戻ってこなかったが、すっかり酔ってしまった春彦には真樹の事を気に掛ける余裕もなく、ほとんど朧気な意識のまま、それでも何とか自分の部屋に帰り着いた。昼過ぎにようやく目覚めると、あれ?いつもなら隣で寝ているはずの真樹がいない。酒が抜け切っていないぼんやりした頭で昨夜の事を反芻し、真樹が今ここにいない事に、突然斬りつけられるような不安を感じた。次第に強まってくる動悸を堪えながら真樹の携帯に連絡してみるが「お客様のお掛けになった電話は、電源が入ってないか、お客様の都合により・・・」無表情なアナウンスが繰り返されるばかりだった。自分は何か、取り返しのつかない事をしてしまったのではないだろうか・・・そう思いついた春彦は急いで着替えると真樹の部屋へと向かった。

 真樹も一応、自分の部屋を持ってはいたが、大学や、バイト先のデイヴィスにより近いというだけの理由で、普段は春彦の部屋で一緒に過ごしていた。あまり使われていない真樹の部屋だが合鍵は持っていた。急いで開けた扉。部屋の中は奇麗に片付いていた。ピンクと白を基調にした家具類が置かれ、やはりピンクのカーペットが敷かれた部屋は、まるで人が住んでいないモデルルームのようにも見えた。ふと思いつき、たんすの抽斗を覗いてみた。見慣れた衣類が消えている。押し入れを開くと、いつも隅に置かれていた旅行鞄が見当たらない。すっかり動揺した春彦は、震える手でマスターの携帯に連絡を入れてみた。

「ああ、真樹ちゃんなら朝早くに電話があってね、当分店を休むそうだ。急に旅に出る事になったとか言ってたけど、何か詳しい事を聞いてないかな」

 春彦は呆然としたまま曖昧な声で返事をすると、「もしもし・・・もしもし・・・」そう繰り返すマスターの声を無視したまま電話を切った。

 急いで真樹の部屋を飛び出すと、その足でOが泊っていると言っていた駅前の旅館に走った。こざっぱりとした商人宿風の建物の前で、水を打っている旅館の従業員に話を訊こうと思い、そこで改めて自分がОの本名すら知らない事に気づいた。痩せていて、ぼさぼさの髪で、いつも大きな革の鞄を提げていて・・・Оの特徴を告げ、「そのお客様なら随分と朝早く発たれましたよ。若い女の人をお連れでした」という言葉を引き出した時、自分と真樹の間に張られていた糸が、そう、その糸は最近では随分とか細くなってはいたのだが、ぷつりと切れてしまったように思った。そのまま膝から崩れ落ち、泣いてしまうのではないかと思ったが、そうはしなかった。そうするにはあまりにまわりの景色が明るかったのだ。冬はもう去りかけていた。まるで春のような柔らかい朝の陽射しがさらさらと音を立てるように降り注いでいた。

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