組曲Ⅲ 敗残の秋15
酔狂とはこういう事を言うのだろう。ふと緒方はこの荒れ果てた部屋に泊まってみようかと思いついた。そうだ、そうしよう。そう思うと少しだけ陽気な気持ちになり小さく笑った。布団は使い物になるのだろうかと、恐る恐る引っぱり出してみる。布団を覆っている黴や埃が一面に舞った。もちろん黴臭くはあったが中の綿はまだ腐ってはいないようだった。ともかく日が暮れるまでに少しでも黴の臭いが消えるようにと、その何枚もの布団を勉強机や、座卓の上に広げて置き、窓枠にも広げて干した。それから酒やつまみなど、まるでキャンプでも楽しむような気分で、食料品を買いにふもとの街まで下りる事にした。
往復に一時間ほども掛かるスーパーマーケットで、酒、缶詰、紙コップや紙皿、そういえば確かめる事もしなかったがもう電気も通っていないだろう、蝋燭やライターまで買い揃え店を出た。店の前に広がる駐車場の隅にある緑色の公衆電話にふと目が留まる。携帯電話というものを持っていない緒方は、いまだによく使うテレフォンカードを財布から取り出した。受話器を耳に当て、東京の自分の部屋の番号を押し、じっと呼び出し音に耳を澄ます。ひとつ、ふたつ、みっつ・・・、十回ほど呼び出し音を聴いてから受話器を戻した。もうそこになつめはいないのだろうか。そうさ、もういなくなっているだろうさと、何度も何度も自分に言い聞かせた言葉を改めて頭の中で繰り返した。とうに諦めていたはずだったが、実際に虚しく響く電話の呼び出し音を耳にすると心が強く痛んだ。なつめはもういないのだ。動悸が激しく胸を打つ。
水の中に落とした墨汁の雫が、音を立てる事もなく静かに広がってゆくように、部屋中に闇が広がる。深まる闇に部屋の中もしんしんと冷えていった。黴の臭いが嘲るように緒方の鼻腔を擽る。緒方は黴の臭いも気にせず、頭からすっぽりと布団を被り、蝋燭の灯りにぼんやりと照らし出された壁を見つめながら酒を飲んだ。飲み続けた。死んだ後輩のこと。なつめのこと。淡い輪郭すらもたないあらゆる記憶が、たゆとうように部屋の中を漂い、緒方は夜が更けるように酔いを深めていった。自分が今、何を考えているのかそれすらもよくわからなかったが、やはりそれでも涙だけは零れ続けた。遠くで犬の鳴き声がする。その鳴き声がこだまして、夜の山中を駆け巡っている気がした。突然、悲しみというやつに大上段から斬りつけられ緒方は慟哭した。大声で泣き叫び、自分の声もやはりあの犬の鳴き声のように山中を駆け巡るのだろうか、いや、駆けめぐって欲しいとそう思った。一旦、悲しみを声にしてしまうと、すっと心が落ち着き、涙が乾くとまた静かな気持ちで酒を飲み始めた。
眠りに落ちていた。ふと気がつくと今が何時なのかもわからない。すでに蝋燭の炎も消えていた。一面の闇の中、ここは夢の中?それともうつつ?訝しく思いながらも嫌な音を聴いた。ふっ、ふっ、ふっ・・・、これは獣の息の音ではないのか?薄い、ところどころに破れ目すらある板壁一枚の向こうで、何か得体の知れない獣がじっと身を伏せたまま緒方の様子を窺っているのだと思った。ふっ、ふっ、ふっ・・・、その音が遠ざかり、近づき、また遠ざかり・・・、正体のわからない獣の半開きの口から漏れ出す息の音がゆっくりと部屋のまわりを動いていた。その息の音にもいつしか慣れてしまった頃、緒方はまた眠りに落ちた。
それからどれぐらいの時が経ったのだろうか、緒方は再び目を覚ました。いや、もしかしたらまだ夢の中にいるのかもしれなかった。闇はどこまでも濃かった。遠くの方から聴こえてくるそれは、人の足音ではないだろうか。その足音がゆっくりとこちらに近づいてくるようだった。時折強い風が山を揺らすように吹き抜け、そこにあるすべての音を覆い隠す。その風が止むと、一瞬の音の余白にまた滲むように人の足音が浮かび上がってくる。風が止み、風が吹き、そのたびに足音は近づいてきた。こんな夜更けにいったい誰がこの暗い山道を歩いているのだろうか。緒方は足元もおぼつかない、人の姿も呑み込んでしまうような闇の中を、ただ提灯ならぬ懐中電灯の灯りだけがゆっくりと進んでゆく様子を思い浮かべてみた。確かにこの山を越えるのが近隣の町への一番の近道ではあるが、こんな夜中に山に入り込むような人間がいるのだろうか。足音は今、緒方がいる部屋のそばまできていた。緒方はじっと身を伏せるように体も心も強張らせたまま、その足音が過ぎるのを待った。部屋のすぐ前を通り過ぎた足音は、やがて何もなかったかのように遠ざかってゆく。風が吹き、風が止み・・・、足音が遠く風に紛れてしまった頃、緒方はまた浅い眠りに落ちた。
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