組曲Ⅱ 夏の夜の白い花8
どこからだろう、遠く、近く、夜を通して男の怒声が聞こえていた。権蔵だ。街中をうろうろと歩き回りながら叫び続けているのだろう。まるで拍子木を打ちながら「火の用心」と声を掛けて歩く夜回りのようだ。あちらの辻、こちらの角、権蔵の声は街の形すら思い起こさせるほどにさまざまな方角から響いてきた。
綾とふたり、裸のまま布団の上に寝転がっていた。手探りで煙草を探す俺の口に、綾が自分で火をつけた煙草を咥えさせた。俺は煙草を咥えたまま体を返し俯せになる。
「初めて聞いた時は権蔵の声って何だか怖かったけど、聞き慣れてしまうと何やろ、滑稽な気もするね」
綾も俺の真似をして俯せになり、今度は自分のための煙草に火を点けた。一瞬、綾の横顔がライターの炎に照らされ、随分と彫りが深く見えた。
「あんなに大声で叫び続けて、喉とか痛くならんのやろか」
何が可笑しいのか綾はひとりでくすくすと笑う。俯せになり肘をついた綾の、背中から尻へかけての滑らかな曲線があまりにも美しく、俺は慌てて目を逸らした。
「あんた、ずっと前、シルビアのジュリちゃんともやったんやて?」
綾はふと思い出したかのように呟き、それからふうっと煙草の煙を吐いた。
「もう昔の事やから構わんけど、こんなに狭い街やからね、水商売やっとる人間はほとんど知り合いばかりで、何でも噂になる。他にもあんたが寝た女の名前をいくつも聞いとるんよ」
俺は何か言葉を返そうとしたが、言いたい事も思いつかず、ただくぐもった声を漏らしただけだった。
「でもな、あんた、何人もの女と寝たからいうて、もててた訳じゃないよ・・・何やろうな、あんた見てると、皆、不思議な気持ちになるんよ。図体ばかりでかくて、それでいて恰好も良くないし、何だかうすのろみたい、金も持ってるようには見えんし・・・でもなぜか放っておけんのやねえ。どこか哀れな感じがするんやな。餌、あげたくなるような野良犬っておるやん。あんな感じやね・・・」
俺は綾に向かって殊更に苦い笑いを作ってみせた。もてる?自分が女にもてるなどと思った事もなかった。もてるだの、もてないだの、そんな事にはまったく興味がなかった。いや、それどころかあらゆる事に対して、何ひとつ興味が持てなかったんだと、俺は心の中でそう呟いた。うん、実はもうどうでもよかったんだ。何もかもがさ。捨て身、そうさ、この俺にどこか他人様と違うところがあるとすれば、そう、捨て身、ただそれだけなんだ。ふらりと入った飲み屋のカウンター席に座る。どさりと音を立てて荷物を投げ出すように、俺は自分自身を投げ出すんだ。それを拾うかどうか、そいつは女次第だ。多分、その捨て身が女の気持ちを惹きつけるのかも知れないな。口を開けば、俺が、俺がと泡を吹くように自分語りとかいうやつを繰り返す、そんな自分自身の事が好きで、好きで、大好きでたまらないような男たちとは違う。ならば俺が控えめな男かって?さあね、ただ少なくとも押しつけがましい男でない事だけは確かさ。押しつけがましさ、それは俺には微塵もなかった。もし、俺に、世間の男たちと違うところがあるとすれば、ただそれだけさ。もちろんそんな事すら考えた事もなかった。考えるほどにも自分自身というものに興味が持てなかったんだ。
「何か捕まえとかんと、あんた、ふっと消えてしまうような気がするし、いや、別に消えてしまったからといって勿体ないと思う訳でもないけど・・・うん、なんやろうなあ、なんであんたの事なんか、好きになってしまったんやろか・・・」
この部屋は高台にあり、部屋のすぐ前は坂になっている。その坂のふもとあたりからだろうか、さっきと比べたら随分と近いところから権蔵の怒鳴り声が聞こえる。その声に絡むように犬の激しい鳴き声がする。坂のふもとの家が犬を飼っているが、その犬はたいそう癇がきつく、前を通る誰にでも吠え掛かった。俺はその犬の、いかにも神経質な小面憎い顔を思い浮かべてみた。権蔵が犬を威嚇しようとしているのだろう、金網を激しく蹴り上げる音が静かな夜に響き渡った。
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