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組曲Ⅰ 修羅の春4

 客のいない店内に落ち着かない空気が満ちていた。緊張を隠すよう平静を装う四人の男たちが、何ら面白くもない冗談を声高に言い合う。春彦も、真樹も、不定期に入るアルバイト学生も、四人の男たちとは何の関係もないというような顔で、開店の準備をしている。その四人、彼らは今日これから開かれるライブのメンバーたちだった。デイヴィスでは月に数回のライブが開かれる。現役のジャズアカデミーのメンバーはもちろん、ジャズアカのОBで作るバンド、それ以外にもこの街でずっと活動を続けているバンド、時には都会の街からプロのバンドがやってくる事もあった。真樹も数か月に一度、ソロのライブを開かせてもらっている。ともかくさまざまなバンドが大真面目に、その腕前はともかく、まるで一流ミュージシャンにでもなったような気障な振る舞いで、各々ご自慢の腕前を披露するのだった。

 その日の出演予定はジャズアカのОBたちで組まれたバンドだったが、どういう訳かピアニストが時間になっても現れない。サキソフォーン、ドラム、ベース、ピアノというカルテット編成のバンドだった。苛立ちながらもピアニストを待つメンバーの携帯が鳴った。

「おいおい、どうする?ピアノ来れないってよ」

「ええっ、ピアノ無しでやるか?」

 メンバーの一人がふと思いついたように、カウンターの中で洗い物をしている真樹に目をやった。

「真樹ちゃん、いけるよね?」

 いける?つまり飛び入りで参加できるか訊いているのだ。

「ええ・・・大丈夫かなあ・・・」 

 そう呟きながら首を傾げてみせる真樹に、迷っている様子はなかった。その傾げた頭の中には、先輩たちのバンドに加わり、ピアノを弾きまくっている自分の姿をはっきりと思い浮かべていた。

 ほらほら、とマスターに冷やかすように肩を押され、濡れた手をエプロンで拭うと、そのエプロンを素早く外し、足早にピアノに向かう。ピアノの前に座り両の手で鍵盤を慈しむように撫ぜる、その瞬間、真樹の中からもう一人の真樹が、それはしなやかな獣のような姿をしているのだが、その真樹の立ち昇る姿が春彦の目にははっきりと映った。

 やがて十数人ほどの常連客が集まり、いつものように内輪のライブが始まる。普段なら店の中でてきぱきとバーの仕事をこなしている真樹が、いつもと違うバンドに加わっているという珍しい光景を目にした客たちは、冷やかし半分にその姿を見つめていた。

 サキソフォーンがソロを取っている間、ハイハットが刻むリズムに合わせてコードを弄んでいた真樹が、ソロを受け渡されると同時に、間奏までもすっ飛ばし、いきなり鍵盤に思い切り両手を叩き付けた。ソロを渡し、安堵の表情を浮かべていたサキソフォーン吹きが思わず真樹の方を振り向く。一瞬にして空気が変わった。そこにいる誰もが、いや店そのものがいきなり目を醒ましたという感じだった。その華奢ながらも柔軟性に富んだ肉体のすべてを躍動させ、指は八十八個の鍵盤の上を自由に駆け巡る。その様子はいつも春彦が盗み見ている練習の時の真樹ともまったく別人のようだった。

 共に演奏しているメンバーたちとはもちろん、客席にいる一人一人の心にしっかりと寄り添いながらも、自由奔放に振る舞う真樹から誰もが目を離せなくなってしまった。

 およそ三十分ずつ三セットのライブはあっという間に終わり、そこにいる誰もが興奮を隠さなかった。演奏を終え、いつも通りのちょっと内気なアルバイト店員に戻り、カウンターの向こうで洗い物を始めた真樹の前に、バンドのメンバーたちが集まった。

「真樹ちゃん、いつの間にそんなに腕を上げたんだよ?」

「前はこんなに自由に弾けなかったよね」

 カウンターから離れた席で、ジャズアカのメンバーたちと興奮したように何かを喋っている仲の良い友人が、真樹と目が合うと満面の笑みでピースサインを作った。

 次々と投げ掛けられる言葉に、ただはにかむような笑みを浮かべてみせるばかりの真樹に代わって、なぜだかマスターが得意気に答える。

「覚悟を決めたやつの音ってのはこんな感じだぜ。何しろ真樹は一日も休まずここで練習を続けているからな」

 皆から少し離れたところで一人、床を掃いたり、テーブルを拭いたりしている春彦は、自分の中にじわじわと湧き上がってくる不快な感情を持て余していた。真樹の演奏を聴いている間、あれほど高揚していた気分は一体どこに消えてしまったのだろう。自分では決してそんなものがあるとは認めたくない、寂しさにも、悔しさにも似た、体中に纏わり付いてくるような嫌な気持ちが、次々と自分の内側から湧き上がってくるのだった。だがその嫌な気持ちに嫉妬という言葉を当て嵌める事ができるほどに春彦は素直ではなかった。

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