組曲Ⅳ~冬の日のおとぎ話12
昼間、仕事に打ち込んでいる間は、さほど咳き込む事もなかったが、夜になり気温がぐんと下がるとそいつらがいきなり襲いかかってくる。槍持って、盾持って、ともかくこの私を一瞬たりとて眠らせるもんかと大張り切りでやってくるんだ。もう、その頃の私はほとんど眠る事ができなくなってしまっていた。寝不足、そいつがもはや背負いきれないほどの大きさになって、私に圧し掛かっていた。おまけに不意に襲ってくる息切れに足を取られ、診察台の上で大きく口を開けている患者の隣でへたり込む事もしばしばだった。衛生士たちに、何度も病院に行くように勧められ、その都度「大丈夫、大丈夫」と笑ってごまかそうとするのだが、その「だいじょうぶ」という五個と半分の文字はたちまち咳に飲み込まれ、優しい衛生士たちをさらに不安にさせるのだった。真っ赤に充血した目と、真っ青にこけた頬を持て余したまま午前中の診療を終え、昼休みを自宅で過ごすために診察室を出ようとする私の前に、衛生士たちが立ちはだかった。
「今日は午後からの診察を休みにします。患者さんには私たちが説明しますから。先生には絶対に病院に行っていただきます」
有無を言わさぬ強い口調でそう告げられ、そのまま呼んできたタクシーに押し込まれた。タクシーの座席に蹲りながら、もう私は、何一つ自分で判断する事ができなくなっていた事にようやく気づいたんだ。
街で一番大きな総合病院の門をくぐった。問診を済ませ、言われるままに検査を受ける。レントゲン、血液検査、心電図・・・一つ検査を済ませ、診察室に戻るたびに医者の顔が険しくなっていった。最初に問診してくれた、いささか頼りない風情を漂わせた若い医者は、いつの間にかベテランの貫録を纏った医者と交代していた。
「今日、このまま入院していただきます」
ああ、それならば一旦家に戻って準備を・・・などとろくに回らぬ舌でぐにゃぐにゃと呟く私のその言葉を遮るように「こ、の、ま、ま、入院していただきます」と一語一語を鮮明に、ゆっくりと繰り返す医者の、有無を言わせぬ強い言葉にうろたえながら、ふと振り向くと、私の背後で若い看護師が車椅子のハンドルに手を掛けたまま、にこやかな笑みを浮かべていた。
・・・こ、こ、この車椅子に私が乗るのでしょうか・・・
車椅子に座ったままエレベーターに乗り、長い渡り廊下を渡り、別棟にある集中治療室に運び込まれながらも、でも実はさ、頭の中で、もう、あの咳や息切れと一つになって過ごす夜から解放されるのだろうと秘かに安堵していた。
喘息だとか、肺炎だとか、結核だとか、そんな病気を患っているのだろうと、何となく思っていた私は、医者から貰った心不全という病名に驚いた。心臓ってやつがろくに働かなくなり、そのせいで肺に水が溜まってゆく、そんな事があるなどとは想像もしなかった。レントゲン写真に写る私の肺は、中東の貴婦人たちが自分の口元を隠すために纏う面紗のような真っ白い影に覆われていたが、その白い影は肺に溜まった水なのだと説明を受けた。
それから二週間、すっかり打ちのめされてしまったような風情で、ぐったりと病室のベッドに横たわったまま、きびきびとした看護師たちの働きぶりを、バレエの群舞でも見るようにうっとりと眺め続けた。二週間?そう、たったの二週間ですっかり生きた心地を取り戻した私は、その二週間という短い期間で崖っぷちから生還できた事に驚いた。点滴と、投薬と、可愛いナイチンゲールたちの手厚い看護のお陰で生死の縁から戻って来る。うん、その時感じたのは何より、人間の命なんて大したもんじゃあないなという事だった。私は豆粒みたいなお薬様に生かしていただいているんだ。
私は何か大きなものを失った気がした。例えば勇気だとか、自信だとかさ。いや、単に自信というよりも、もっと幅広い、ともかく何かを信じるという心、そいつを失くしてしまったんだ。病院のベッドの上で急激に回復しながらも、ひたすら十年以上も前のリリタン中毒の頃の夢を見ては、寝汗の海に溺れかけながら目を覚ました。十年前、あのリリタン中毒が執拗に、腹部にジャブを打ち続けられたようなものなら、今回の心不全、それはテンプルに一発、強烈なフックを見舞われた、ボクシングという競技に例えるならまさにそんな感じだった。ともかく私は深々とリングに沈んだんだ。
私はもはや、洗い晒され、色落ちし、くしゃくしゃに型崩れした古い洗濯物以上に自分を感じる事ができなくなってしまっていた。もう、一切内側から力が湧いてくる気がしなくなった私は、長年営んできた歯科医院を畳む事にした。
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