雑記37 開拓者としてのテレマン
半年ほどどっぷりと作曲に浸っていた。どこからか依頼があったってな訳じゃない。ただ、そろそろ寿命が残り少なくなってきた。うん、どうしても書き残しておきたい音があるのさ。そんな訳でどっぷりと作曲という行為に漬かり込んだ。人様からするとほとんど落書きにしか見えない音符の塊をせっせと大学ノートに書きつけたこの数か月。その大学ノートがすっかり音符で埋まってしまったところで一休み。うん、たっぷりとたまった下書きを、仕込んだ酵母を発酵させるように、しばらくの間、寝かせておこうってな腹積もりさ。そうだ、その間に書きかけていた音楽史の下書きを、あれ、どこまで書いたんだっけ?前章を改めて読み直してみるとテレマン、うん、テレマンについて書こうとしていたところだね、という事は、そうか、産業としての音楽が本格的に動き出したあたりの話か。では、その続きを。
ゲオルグ・フィリップ・テレマン(1681~1767)の足跡を辿ると、宗教から経済へと大きく変貌を遂げつつある社会の姿をそのまま凝縮して見せてくれているような気配すら感じる。その自由な活動、それは彼が主に商都であるハンブルグで活躍した事、プロテスタントである事ともおおいに関係しているだろう。
40歳でハンザ自由都市であるハンブルグ、その街に都市音楽監督として招かれ、同時に宮廷の主催ではなく、市民の共同出資によるゲンゼマルクト歌劇場の監督とを兼任する事になったテレマンは、聖トーマス教会の楽長としての誘いを断ってしまう。要するに教会と袂を分かったって訳さ。ちなみにテレマンに楽長への就任を断られてしまった教会側は、その代わりにセバスチャン・バッハを招聘するのだが、その折に書かれた「一流音楽家のテレマンに就任を断られた今、そこそこの音楽家であるバッハで我慢しなければならない」といったような内容の内部文書が残されている。
ともあれ一般の市民を相手に、産業としての音楽を広めたテレマンの手法は、それまで誰もが思いつかなかったような鮮やかなものだった。まずは著作権への強い意識。それまでは出版社が作曲家から版権をすべて買い取っていた。つまり作曲家は一旦書き上げた譜面を依頼主に手渡してしまえば、後は作品に関して一切関知する事はできなかったんだ。例えばテレマンと同じ18世紀に活躍したモーツアルト。彼が新しい交響曲を発表すると、それから一週間もしないうちに他の作曲家の手による、室内楽版の編曲が出版されるというような事が当たり前に行われていた。そんな状況に不満を持つテレマンは、自ら出版社を起こし、徹底的に自身の作品を管理した。作曲家として自身の作品の版権を独占したんだ。
さらに自作の売り込み方も画期的なものだった。「忠実なる音楽の師」という彼の名作は、あらかじめ予約してくれた相手に販売され、さらにその後には週に4頁ずつつまり週刊の刊行物として新たに販売を続けるという斬新なものだったし、代表作ともいえる「ターフェルムジーク」は自身の演奏会と関連付けて楽譜を販売した。またこの頃から次第に盛んになりつつあった市民相手のコンサートでは、彼の先駆者ともいえるトーマス・ゼーレがそうしたように、当日演奏される曲の歌詞カード付きのパンフレットを販売した。一方で監督を勤めていた歌劇場が、イタリアオペラの隆盛によって、翳りを見せ始めると即座に撤退している。そういう潮目を伺う能力の高さもテレマンらしいと言ってもいいだろう。
一時期の収入がハンブルグの市長をも上回っていたと言われるテレマンが、生涯にどれだけの曲を残したのかは、未だはっきりとは分かっていない。1500曲という説もあれば、4000曲以上もあると書かれた論文を見た事もある。その資料としてまとめ切れない曖昧な数字からも、ともかくテレマンという人間がいかに精力的に生き抜いたかという事実が読み取れるだろう。
彼の功績の是非を一つ一つ丁寧に検証してみたいという気持ちはあるのだが、ともあれ今は先を急ごう。次はある意味テレマンと対照的な生き方を選んだ(いや、選んだという言い方は適切とはいえないかもしれないが)セバスチャン・バッハについて考えてみたいと思っているんだ。
2024 6 12
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