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組曲Ⅲ 敗残の秋10

 早朝に目を覚まし、寝ている夜の間にすっかり淀んでしまった部屋の空気を入れ替えようと大きく窓を開け放った時、あるいはすっかり日が落ちてしまった夕方に、商店街の雑踏の中を足早に通り抜ける時、ふと冬の匂いがした。ベッドをなつめに譲り、近所の古道具屋で見つけた三人掛けのソファーを寝床にするようになった緒方は、いつもの年よりも少し早めにストーブを出した。一枚の毛布に包り、目の前に置いたストーブに暖められながら眠るのもさほど悪くないと思った。ストーブの炎が部屋の中を柔らかく照らし出す。ストーブが作る暖かい影を纏ったなつめの寝姿を眺め、そのなつめの目に映る自分が、なつめと同じようにストーブの炎に照らし出され、ふわりと闇に浮かび上がっている、そんな想像を繰り返しながら眠りにつく事もしばしばだった。

 

 ある夜の事だった。ふと気がつくと、いつもより部屋を覆う闇が深いように感じた。ストーブが聞き慣れない、ぱたぱたという弱々しい音を立てている。そうか、灯油が切れかかっているのか、炎の勢いがすっかり弱まっていた。なつめを起こさないように緒方はそっと起き上がる。玄関横に置いてある灯油缶はほとんど空になりかけているらしく、それは拍子抜けするほど軽々と持ち上がった。ストーブを諦め「しょうがないな」と呟きながらソファーに身を沈め、毛布を鼻のあたりまで引き上げた。

「おじさん、寒いんでしょう。私の布団に入りなよ」

 いつの間に目を覚ましたのか、なつめがベッドの上で上半身を起こしたまま緒方をじっと見つめていた。

 いいよ、大丈夫だよと答えてからなつめの方を振り向くと、なつめは布団の端を持ち上げたまま、さあ、早く、という表情で緒方をじっと見つめている。しばらく戸惑ってからソファーを下りた緒方は、なつめが待つベッドへといざり寄った。わざと子供のような無邪気さを装いながら布団にもぐり込んだ緒方に「ほら、暖かいでしょ」と少し得意気になつめは笑う。

 すぐ目の前になつめの顔があった。なつめの体温を、吐く息を、こんなにも直に感じた事はなかった。心がふわりと宙に浮くような気がした。二人ともが、まるで知らない土地に旅行にでも来たかのような気分になり、互いに互いの昂ぶりを感じ合った。

「ねえ、おじさん、あの歌、うたってよ」

 ん?あの歌?見開いた緒方の目を笑いながら覗き込むと、なつめは初めて二人が出会った時に、アパートの外階段で自分が歌ったサマータイムという曲の一節をハミングした。緒方も少し笑い、その続きを口ずさむ。すると今度はなつめが、まるでしりとりという言葉遊びのように、さらにその続きを歌い返す。普段話す時よりも半オクターブほど高い声だった。緒方はそのなつめの声の後に、思いつくままに即興で作った節を繋げてみた。緒方の即興に、なつめも即興で返してくる。さらに半オクターブ高い声で。あまりに澄み切ったなつめの声に、一瞬部屋の中が明るくなったような錯覚を起こした緒方は、突然声をひそめ、少し悲しげな節を返してみた。それに続くなつめの歌声はいっそう悲しく震えていた。緒方はさらに深い哀愁を込めて、なつめに向かって悲しい手紙でも送りつけるかのように歌った。それに続くなつめの声からは一気に悲しさが溢れ出し、部屋の隅々にくぐもっている闇すらをも、ふるふると震わせた。緒方は鼻の奥がつんとした。ああ、なつめはこんなにも悲しい気持ちを、その小さな胸の奥に隠し持っていたのかと。なつめが歌い終わる前のその節に、緒方は自分の声を絡めた。その緒方の声に、さらになつめの歌声が絡みつく。体と体を絡み合わせるように二人は声と声を絡め合った。

 あるいは窓の外には暗い海がどこまでも広がっているのではないのかと錯覚でも起こしそうな、そんな不安な気持ちで胸の中が一杯になった。まさに胸が張り裂けそうだった。いや、すでに胸は張り裂けていた。その張り裂けた胸から悲しさが止め処もなく滔々と溢れ出る。ただただ切ない。耐えがたいほどに心臓が強く胸を打つ。二人ともぶるぶると震えたが、それはもちろん寒さのせいではなかった。横たわったまま緒方を見つめるなつめのその瞳が潤んでいた。緒方は震える両の手でなつめのつややかな頬を挟み、自分の心を、いや、心だけではない体も、いや、自らの存在のすべてを込めて口づけをした。火のように熱く感じる唇を離すと、なつめは緒方の胸に顔を埋め、頭をごしごしと擦り付ける。洗い髪の香りが闇に広がった。高波が押し寄せてくるように切なさが押し寄せてきて、その切なさに耐えられなくなった緒方は再び唇を重ねた。さっきよりも、もっともっと深く心を込めて。なつめがその華奢な体のすべてを擦りつけてくる。まるで二人で一人の人間になってしまいたいとせがむかのように。そしてもう一度、口づけを・・・。

 水を一杯に湛えた堤防が一気に決壊するように何かが激しく壊れ、二人は突然荒れた海に投げ出されたかのように自分らを感じた。そしてその日から、二人はつがいの海月のように、その荒れた海を漂い続ける事になるのだった。

 苦しみが始まった。その夜から。恋愛?そう、そいつが突然二人の間に割り込んできたのだ。これが恋人同士として知り合うべく知り合った二人なら、人生で最も輝かしい出来事としてこの瞬間を謳歌しただろう。だがそうでない二人にとっては、大きな苦しみの始まりでしかなかった。何がそんなに苦しいのか、何度自らに問うてもその答えは見つかりそうになかった。ただ訳のわからない不安だけが、ぐんぐんと膨らんでくるのだった。果たしてその不安はどこまで大きくなるのだろうか。それはもちろん二人を圧し潰してしまうまでだ。その次の夜、これからまた別々に寝ようという緒方の言葉に、なつめは無言のまま顔を曇らせたが、その曇った顔、それがその日からのなつめの新しい顔になった。

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