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組曲Ⅱ 夏の夜の白い花14

 酔いのせいだろうか、一瞬記憶が飛んだ気がした。よく同僚たちと立ち寄る居酒屋にいた。いつも何気なく眺めているカウンターの端に置かれた大きな将棋の駒の置物、その駒に書かれた左右が逆になった「馬」の文字がなぜか気になった。ふと我に帰ると俺は立ち上がり、知らない誰かと睨み合っていた。そいつは隣の席で飲んでいたサラリーマンたちの中の一人だ。そいつは緩んでこそいたがネクタイを締め、背広を着込んでいた。くそ、夏だというのに暑苦しいやつめ。 

 いつもと同じ飲み会のはずだった。今夜の俺は近頃には珍しく機嫌良く飲んでいた。それがどういう理由で知らない男と睨み合っているのだろうか。そのサラリーマンが俺の体を強く押し、押された俺はテーブルにぶつかり、酒や肴が床に散らばった。体が一気に燃え上がった気がした。俺はその男の頭を自分の脇に抱え込むと、そのまま男を捻じ伏せた。力の入り具合から、その男がかなり酔っている事がわかった。俺は素早く仰向けに倒したそいつに馬乗りになり、しっかりと固めた拳に思い切り力を込め何発も殴った。相手の眼鏡が吹っ飛び鼻血が流れ出す。気がつくと俺の拳が赤く染まっていた。

「やめろ、殺す気かいな」思わず寛さんが叫ぶ。

「あかん、香田さん、あかんで」菅野が背後から俺を羽交い絞めしようとする。

 口々に喚きながら同僚たちが、今俺の下で泡を吹いている男の連れたちが、慌てて走り寄ってきた店員たちが、俺を男から引き離そうと組み付いてくる。くそ、邪魔だ、どいつもこいつも、この男を殺したらお前らも順番にやってやるから大人しく待ってろ・・・。五六人の男たちから居酒屋の外の連れ出された俺は、意味のない言葉を喚き続けた。喚き続けていないと自分がたちまち壊れた寄せ木細工のようにばらばらになってしまう気がしていた。

「いいから、香田さん、後は俺たちで何とかするからともかくどこかに行きや」

 なぜだか分からない、視界が涙で曇った。もう、どうでもよかった。俺は寛さんの言葉に背中を押され、一人闇に紛れるように居酒屋に背を向けて速足に歩き出した。背後で「逃げるのか」という、多分俺が打ちのめしたサラリーマンの連れのものだろう、叫び声がした。

 いつの間にか俺の足はいつかの屋台に向かっていた。飲ませてもらえるかな?その自分の声が掠れている事に気づいた。暖簾をくぐった俺の目に飛び込んできたのはいつかの酔っ払い、あの小柄な初老の男だった。男は一人ではなかった。こいつらが「若いもん」なのだろうか、その若いもんが三人、一斉にこちらを睨んだ。

「おい、あんちゃん、いつ来るかと思うて、ずっと待ってたんやぞ」

男らが立ち上がった。

「すぐ横に公園あるから、そこに行こか」

 その屋台は公園のすぐ隣にあった。夜はほとんど人気のない公園だった。左右に枝を伸ばした木々が鬱蒼と生い茂り、外からはほとんど中の様子が見えない公園で、俺は男らと睨み合った。腹の底が熱かった。さっきサラリーマンを殴りつけた感触が、まだ生々しく拳に残っていた。初老の男がぐだぐだと能書きを垂れるが、俺はもう何も聞いていなかった。俺の耳には、もう言葉なんてものが少しも入ってくる余地はなかった。

 俺は初老の男と並んで俺の正面に立ちはだかる体の大きい、吊り上がった細い目の若いもんを、その一人だけを、無言のままじっと見つめた。相手は四人、何があろうともまずはこの一人を、うん、何の恨みもないさ、ともかくこの体の大きい、この吊り上がった細い目の、いかにも喧嘩が好きそうなこの若いもんを殺すと、殺してやると、そう思った。獣が吠えるような声で、その男が何かを喚きながら俺に駆け寄ってきた。俺も思い切り男に向かってぶつかっていった。

 

 体中がずきずきと痛んだ。もう、自分の体のどこがどう痛いのかも分からなかった。股関節でも痛めたのだろうか、右足を真っすぐに前に出す事ができず、ゆっくりとコンパスで弧を描くように動かしながらよろよろと歩き続けた。片方の瞼が大きく腫れ上がり、随分と視野が狭かった。ああ、どこかで権蔵が叫んでいる。

 いつの間にか蟻の巣のような細長い路地に迷い込んでいた。静かな夜だった。目の前に広がる闇だけが微かな音を立てながらうねっていた。その闇が立てる囁きのような微かな音に、楔を打ち込むかのように遠くから権蔵の声が響く。真っ白い夏花を一杯に湛えたあの樹をもう一度見たかった。女に縋るようにあの樹の幹に縋りつきたかった。路地はどこまでも続くと思われた。この辻、この角・・・。まるでこの路地を迷路のように感じた。しかし、ああ、どうしても夏花を湛えた樹に巡り合う事ができない。息が浅い。心臓が強く、速く、脈を打ち続けた。この辻、この角・・・。夏花はどこにもいない。そうして微かに見覚えのある角を曲がった時、街灯が目に飛び込んできた。そうだ、この街灯だ。だが、そこに夏花を湛えた美しい樹の姿はなかった。ぼんやりと灯りが道を照らし、その灯りを取り囲むように漆黒の闇が微かな音を立ててゆっくりとうねっていた。

 突然涙が溢れ出た。俺は女に縋りつくように街灯に縋りついた。なぜか、なぜかだと?そんな事知るもんか。街灯に縋りつく俺の両の目からぽろぽろと、いや、ぼろぼろと涙が溢れ続ける。ああ、俺もやがては夜から夜へと渡り歩きながら大声で喚き続けるだけの、権蔵のような男になってしまうのだろうか。大きく開いた口が悲しさにぐにゃりと歪む。夏花、夏花、ああ夏花に会いたい。

                      了

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