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組曲Ⅰ 修羅の春3

 しんしんと雪が降り積もってゆくように沈黙が積もってゆく。先に春彦が押し黙り、それに応えるかのように真樹も黙り込んだ。二人が喋っている間はじっと身を潜めていた様々な音が、途切れた二人の言葉と入れ替わるように頭をもたげてくる。かちかちと時を刻む時計の秒針、地鳴りのように深く唸っている低い「ソ」の音、それは冷蔵庫の背後から流れ出るモーター音だが、それらの音がただただ真樹を苛つかせる。春彦が押し黙るのは別に珍しい事ではない。春彦は不機嫌になると貝のように押し黙るのが常だった。真樹と向かい合い、炬燵で背を丸めた春彦は、無言のままじっと俯いて煙草を吹かし、氷が溶けかかったウイスキーのグラスを口に運ぶ。春彦を不機嫌にさせ、沈黙の中へと追いやったそのきっかけは一体何だったのだろうか、真樹は思いを巡らせた。

 最初は機嫌よく飲んでいたはずだった。機嫌が良い時の春彦は無駄に饒舌になり、無防備に言葉を垂れ流す。回り始めた酔いにまかせ、いつものように誰かの悪口を並べ続ける。相手は誰でもよかった。自分のまわりにいる誰彼、もちろん会った事も、見た事もないのに春彦の方が勝手にライバル視している若いプロの小説家。自分の能力を認めない大学の教員や、学生たち。ネタには困らない。悪口の種は夏草のように無限に湧いて出てきた。たまたまこの夜、酒の肴になったのはジャズアカのメンバー達だった。かつては真樹もジャズアカに籍を置いていたのだが、一緒に暮らし始めた春彦から、退部するようにしつこく迫られ、元々サークルというものにさほど執着もなかった真樹は、いつの間にか部室に顔を出す事もなくなっていた。

 春彦がアルバイトをしているデイヴィスはまさにジャズアカの溜まり場と言ってよかった。マスターもジャズアカのОBだったし、マスターに居抜きで店を譲った前のオーナーもやはりジャズアカの出身だった。その店で働く春彦には、店員から見る客としてのジャズアカの連中の嫌なところばかりがどうしても目についた。そもそも春彦は明るい若者が嫌いだった。彼らの事をことごとく「チャラチャラした奴ら」という言葉で一括りにした。ジャズアカの誰かに注文を受け、酒を、つまみを、氷やミネラルウォーターを運ぶ、そんな当たり前の事に、小さなお門違いの屈辱を感じる春彦の狭い心の中には、塵のように微かな不快感が憂鬱となって降り積もってゆくのだった。

「だいたい音楽なんかやっている奴にろくなのはいないんだよな」そんな言葉に始まり、思い浮かんだメンバー一人一人の欠点をあげつらった。態度がでかいだの、いいかげんだの、目つきが悪いだの・・・、ともかくどいつもこいつも真剣に物を考えている奴なんか一人もいないよな。真樹は心の中で思った。じゃあ春彦は真剣に物を考えているのか。春彦自身はもちろん、自分が誰よりも真剣に物事を考えているという、何の根拠もない自信を持っていた。

「それにしても真樹は良かったよ。あんなチャラチャラしたサークルから足を洗えてさ」

 二人が一緒に暮らし始めたばかりの頃、まだ始まって間もない恋愛という盲目の病にかどわかされ、春彦の良いところばかりを見ていた真樹は、春彦に強く言われてジャズアカを退部した。本当にジャズを極めたいなら独りでやるべきだ。いいかげんな奴らが大勢集まって遊んでいるようなサークルに所属していたってしょうかないだろうという春彦の言葉に、その頃の真樹はなるほどと納得したのだった。

「あのままジャズアカにいたら、真樹も今頃はすっかり駄目な奴になっていただろうね」

 そう言うとグラスに残ったウイスキーを一気に飲み干し、嫌いなジャズアカの部員たちの名前を十人ほども、聞き取れないほどの早口で続けざまに並べた。その時、真樹の中で何かがぷつんと切れた気がした。真樹は春彦の話を遮り、抑揚を殺した声で静かに訊ねる。

「ねえ・・・新しい小説は書けたの?ずっと前から、もう少しで完成するって言い続けてるよね。書けたのならその原稿、今、見せてよ。まだなら下書きだけでもいいからさ」

 もちろん真樹は知っていた。毎日毎日、凄い小説を書いている最中だと繰り返すだけで、実際にはほとんど文字を書いてもいない事を。「小説を書いている」という春彦の言葉は、今は真樹にとっては怠け者が怠けをごまかすために繰り返す言い訳にしか聞こえていなかった。いや、それでも心のどこかでは信じていた。春彦は多分、書こうとしても、どうしても書けなくて苦しんでいるのだと。だが今、この瞬間、春彦を信じようとする心はどこかに消し飛んでいた。確かにジャズアカの連中はチャラチャラしているかもしれない。でも何もせずに毎日だらだらと管と巻いているこの男よりは数倍ましだ。

「さあ、見せてよ」

 春彦の顔から血の気が引いた。空のグラスに乱暴にウイスキーを注ぎ足し、それを一気に飲み干す。そのグラスを、音を立てて炬燵の上に置くと、そのまま押し黙ってしまった。

 真樹は殊更に冷ややかな声で、感情を押し殺すように喋り始めた。

「昔、小説で賞を獲ったって言うけど、それって高校生相手の文芸コンクールで入賞だか佳作だかを貰ったっていうだけの話だよね。しかも一度切りなんだよね」

 春彦は俯いていた顔を上げ、無言のまま射抜くような目で真樹を睨みつける。そうしようと思っている訳ではないのに、勝手に昂り続ける感情に真樹の声が上ずる。

「東京の出版社にコネがあるというのもどうせ嘘なんでしょう。春彦がよく口にする出版業界の裏話とかだって、どれも雑誌やインターネットの掲示板とかにかいてあるような事ばかりじゃないの」

 春彦は一言も返さない。無言のまま真樹を睨み続ける。

「何か言ってよ。何故一言も言い返さないのよ。何でもいいから。今、自分がどう思っているのかを話してくれなきゃあ始まらないじゃないのよ」

 怒りに歪んだ春彦の口元が小さく震え、いきなり炬燵に乗っていたマグカップを掴むと、そのカップを真樹めがけてではなく、斜め横の壁に投げつけた。音を立てて砕けたその猫の絵が描かれたマグカップは、いつだったか二人で近くのホームセンターで買ったものだ。店先でそのカップを見つけ、手にした時の春彦の笑顔がちらりと真樹の頭を掠めた。

「なぜ壁に投げるのよ。私に腹が立ったのなら私に向かって投げればいいじゃない」

 さっきまでとは違う、また新たな怒りが湧いてきた。春彦は、いや、この男は、相手にまっすぐに向き合う事もできないのか。腹の底から熱い思いが突然に込み上げてきた真樹は、バネを仕込まれた人形のように跳ね上がり、サンダルを引っ掛けるとそのまま部屋の外へ飛び出した。ドアを開け話したまま、カンカンと音を立てアパートの外階段を駆け下りる。そのまま闇に中へ飛び込んでゆくかのように夜の街へと走り出した。春彦は追い掛けてくるだろうか。いや、もうどうでもよかった。抑えようのない暗い怒りが夜の街を駆け抜けてゆく。

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